その日の朝、アリサちゃんはすごくいい笑顔をしていた。
  何と言うか……新しいおもちゃを見つけた子供というか、面白いイタズラを思いついた男の子みたいと言うか、そんな感じの笑顔。そんな少年のような笑顔でも、すごく美人さんのアリサちゃんだとすごく絵になるから、不思議だと思う。
  そしてその笑顔を、私だけのものにできないことは、少し悔しかったりする。
  それは私のわがままで、どうしようもないことなのだけど。
 「アリサちゃん、おはよう」
  百人は座れそうな広い講義室の真ん中にいつも通り陣取っていたアリサちゃんに、私は声をかけた。
  私のことに気付いたらしいアリサちゃんは、より一層の素敵な笑顔を浮かべた。でも、それも一瞬のことで、すぐにその笑顔を隠して、なんでもない素振りを見せる。その日最初に私に出会ったときは、いつもそうだ。きっと、そういう笑顔を見せるのが照れくさいんだろう。
  そうやって平静を装うアリサちゃんは、いつもの頼れる感じと違って、少し可愛い。
 「おはよう、すずか」
  おはようを返すアリサちゃんは少しぶっきらぼうだ。私はそれが照れ隠しだと分かってるから、むしろアリサちゃん可愛いと思ってしまう。思わず口元がほころんでしまう。アリサちゃんと出会ったのだから、ますます私は笑顔になる。だからアリサちゃんには、『すずかはいつも微笑んでるわね』と言われる。
  アリサちゃんと一緒だから、私はいつも笑顔でいられるんだよ。
  私も、いつもアリサちゃんの笑顔を見ていたいのだけど、アリサちゃんは照れ屋さんなので、中々笑顔を見せてくれない。普段の、ハキハキしていて頼りがいのあるアリサちゃんも好きだけど。
  とびきりの笑顔のアリサちゃんも、私は大好きだ。
 「アリサちゃん、何を見てたの?」
  アリサちゃんの笑顔を見てみたいので、私はアリサちゃんの持っているもののことを訪ねてみた。教室に入って、私がアリサちゃんに気付いたときからアリサちゃんはそれを見ていて、だからすごくいい笑顔をしていたのだ。
 「んっふっふー。驚きなさい、すずか」
  案の定、それのことを尋ねたら、アリサちゃんは笑顔になった。
 「じゃじゃーん。とうとうアタシは、これを手に入れたのよ」
  言ってから、アリサちゃんは私の前に、ずっと見ていたそれを掲げた。
  それは、小さな銀色の薄い長方形の箱。片手で持てるくらいの大きさで、軽くて、真ん中に丸いレンズが付いている。箱の辺の部分には沢山のスイッチが付いていて、裏側には液晶画面が付いている。
  とどのつまり、その箱の名前は。
 「……デジタルカメラ?」
 「大正解! 昨日、とうとう買っちゃったのよねー」
  アリサちゃんは、嬉々としてデジカメを掲げた。その顔は、本当に嬉しそうな満面の笑顔だ。なんとなくその笑顔に少年っぽさが見えるのは、アリサちゃんのさっぱりとした性格を表しているんだと思う。
  そう言えば確かに、アリサちゃんは前々からカメラが欲しいと言っていた。だから、今お金を貯めているのだとも。
  私たちは実家がお金持ちだ。本当はお金を貯めたりなんかしなくても、デジカメくらいなら無条件で買うことができる。でも、私もアリサちゃんも、そういうことは嫌いだった。私たちが稼いだわけでもないお金を、私たちのためだけに使うのは、なんだか気が引けるのだ。アリサちゃん曰く『卑怯』。だから、私もアリサちゃんも、社会勉強を兼ねてアルバイトをしている。実家暮らしの大学生なんだし、せめて自由に使えるお小遣いくらいは、自分で稼ぐべきだから。
  ちなみに、アリサちゃんのバイト先はファーストフード店のレジ係さんだ。私のシフトがオフのときは、私もアリサちゃんのお店に寄ったりする。そこで私はコーヒーを注文してから、レジが見える席に座って、ゆっくりとコーヒーを飲む。そこでなら、お客さんに対応するアリサちゃんの普段は見ることができないいろんな表情を見ることができる。アリサちゃんは恥ずかしがるけど、アリサちゃんも私がバイトのときには同じことをするんだから、おあいこだ。
  そうやって、ちゃんと自分で働いて買ったデジカメだからこそ、アリサちゃんはあんなにニコニコ笑ってるんだ。アリサちゃんはそういうことを大事にする人だから、ますます。
  そんなアリサちゃんを見ていると、私も嬉しくなってくる。
  理由なんてない。
  好きな人が嬉しいなら、私だって嬉しいに決まってる。
 「ねえすずか、今日は確か、午後は授業なかったわよね?」
  アリサちゃんは笑顔を浮かべたまま、唐突に私にそう尋ねた。
 「え、うん。今日の授業は午前中だけだけど……」
 「アタシも、今日は授業午前だけなのよ」
 「それは知ってるけど……」
 「だから、今日の午後、このデジカメを試しに行かない?」
  今日のアリサちゃんは、いつになくテンションが高い。前々からデジカメが欲しいとは言ってたし、やっぱり、自分で手に入れてそうとう嬉しかったのかな。
  私としても、こんなに機嫌の良いアリサちゃんとお出かけすることを断る理由なんかないわけで。
 「うん!」
 「じゃあ、決まりね」
  今日はもしかしたら、ずっとアリサちゃんの笑顔を見ていられるかもしれない。
  そうだったら、嬉しいな。




  二コマ目の授業が終わって、お昼ごはんを食べてから、私たちはすぐに出かけた。
  とは言っても、突発的に思いついたお出かけだし、お昼から動き出したから、そんなに遠出することはできない。近場で、デジカメを使える場所なんて、自然と限られてくる。
  私たちは必然的に、とある場所に足を運んでいた。
  その場所は、海鳴市臨海公園。
  地平線の向こう側まで広がる海を臨む、地元の人たちの憩いの場。この辺りは公園の敷地を中心に自然が残されているから、風景の写真を撮るのにもいい場所だ。私たち以外にも、ここで海や林を撮影している人たちをたまに見かける。
  遠くから見ても、海が太陽の光を反射してキラキラしているのが見えた。
  今日はお天気も良いから、たまに吹いてくる海風がすごく気持ちいい。
  目の前には、青い海。
  振り向けば、緑の森。
  空を仰げば、蒼い空。
  私の傍には、笑顔のアリサちゃん。
  穏やかな午後を過ごすには、最高の組み合わせだ。
 「さて、撮るわよ」
  いつになく、アリサちゃんの声は弾んでいた。
  デジカメを片手に、少年っぽく笑っている。
  そんなアリサちゃんの声を聞いて、やっぱり私の気持ちも弾んでくる。
 「まず……そうね。すずか、そっちの手すりの前に立ってくれる?」
 「え、うん。分かった」
  私はアリサちゃんに言われたとおり、手すりの前に立った。手すりは公園の敷地と海を隔てるもので、間近で見ると、海が反射した太陽の光が少し眩しかった。
 「ほらすずか、こっち向いて」
  アリサちゃんに言われて、私は海に背を向けた。
  私の視界に映る人影は、カメラの液晶画面を覗くアリサちゃんの姿だけ。平日の昼間だし、今ここにいるのは、私とアリサちゃんだけみたいだ。
  まるで、この世界に私とアリサちゃんしかいないみたい。
 「じゃあ、撮るわよ」
  私は少し緊張しながらも、カメラを覗くアリサちゃんに、なるべくの笑顔を向けた。
  それから、カシャ、という小さなシャッター音。デジカメにシャッターなんてないから、シャッター音がするのは本当はおかしいんだけど。雰囲気も大事だよね。
  カメラのシャッター音がしてから、アリサちゃんは構えていたカメラを下ろして、液晶画面に映っている写真を見た。私も、自分がどういう風に写っているのか気になったから、すぐにアリサちゃんの傍に駆け寄った。
  私はアリサちゃんの横から、デジカメの液晶画面を覗き込んだ。
  そこに映っていたのは、キラキラした海と、そこに立っている私の姿。アリサちゃんがシャッターを切った瞬間、弱い風が吹いていたらしく、私の髪が少し風になびいて、ふわりと浮かんでいた。
  そして肝心の私の表情は……うん、悪くない。
  そこまで不自然な笑みでもないし、ちゃんと笑えてる。これなら、アリサちゃんにも見せられる、と思う。アリサちゃんのデジカメの最初の被写体としては私では力不足だったけど、私はモデルさんでもないし、きっとこれが限界だ。
  だから、これで及第点。
 「……どうかな、アリサちゃん?」
  私は、これで悪くないかアリサちゃんに訪ねてみた。
  アリサちゃんが気に入ってくれたら、嬉しいな。
 「……アリサちゃん?」
  けれど、アリサちゃんは答えてくれなかった。
  デジカメの液晶画面を見つめたまま、アリサちゃんは固まって動かない。
  私は少し不思議に思って、もう一回アリサちゃんを呼んだ。
 「アリサちゃん?」
  すると、アリサちゃんは、ハッと我に帰ったような表情を浮かべて、一秒くらい待ってから、ぷいとそっぽを向いて、
 「う、うん、いいんじゃないかしら」
  と、言ってくれた。
  そう言うアリサちゃんの顔は、少し赤くて。
  きっと、素直に写真のことを褒めるのが恥ずかしいんだろうな。だって、アリサちゃんは恥ずかしがり屋さんだから。アリサちゃんは照れたとき、こうやってそっぽを向いたり、なんでもない風を装ってぶっきらぼうな口調になったりする。今回はその両方。
 「ありがとう、アリサちゃん」
  こうやってアリサちゃんに褒められると、私はすごく嬉しい気分になる。どんな嫌なことがあっても、アリサちゃんの一言だけで元気になることができるくらい、アリサちゃんの言葉は、私にとって大きな意味を持つ。
  他の人には、きっと分からないと思う。
  でも、こうやってぶっきらぼうに私のことを褒めてくれるのがアリサちゃんで、私だけのアリサちゃん。
  アリサちゃんにはいつも笑顔でいてほしいけど、こういうアリサちゃんも可愛いから、やっぱりアリサちゃんはいつも通りで、アリサちゃんのままでいてほしい。
  だから。
 「さ、さあ、ドンドン写真を撮るわよ。いいわね、すずか?」
  少し照れくさそうに、そう言うアリサちゃんに。
 「うん!」
  笑顔で答えるのは、私からしたら当然のことなのだ。
 



  アリサちゃんの写真撮影会が始まってから、二時間くらいが過ぎた。
  あれから、私たちは海を撮ったり、空を撮ったり、森を撮ったりと、いろんなものを撮影した。さすが海鳴市民の憩いの場、海鳴臨海公園。これでなかなか、被写体には困らなかった。
  海の向こうを見ると、すでに太陽が傾きかけていた。顔を上げなくても太陽の位置を確認することができる。まだ空は茜色に染まっていないけど、あと一時間もしない内に、この公園は夕日に包まれる。そんな、夕方の風景を撮影してもいいのだけれど。
 「まさか、二時間足らずでバッテリーが切れかかるとは……」
  呻くように、アリサちゃんが呟いた。
  そうなのだ。
  デジカメのバッテリーが、もう残り僅かしかないのだ。きっと、あと二、三枚写真を撮ったら、バッテリーが完全に切れてしまうだろう。最近のデジカメはメモリーカードを使うし、最近のメモリーカードは容量も大きいから千枚以上の写真を撮影することができても、バッテリーはどうしようもない。
  そのことを、私もアリサちゃんもすっかり忘れていたわけで。
 「もう、今日の撮影会は終了だね」
 「そうね。残念だわ」
  アリサちゃんは、心底残念そうに呟いた。
  けれど、このくらいでへこたれないのがアリサちゃんだ。
 「……せめて、最後の一枚は、最高の一枚にしましょ」
 「そうだね、アリサちゃん」
  そうと決まったら、急がないといけない。
  私とアリサちゃんは、目で合図してから、ほぼ同時に走り出した。
  臨海公園とは言っても、海鳴市はそこそこ都会だし、海側を撮影するとどうしても港湾施設が写真に写ってしまうことが多い。けれど、私たちが見つけたのは、周りになにもなくて、港湾施設が写りこまずに、海が見渡せる場所。
  前々から、この場所は良い、と思っていた場所。
  そして、なのはちゃんとフェイトちゃんにとっての、特別な場所。
  私たちはすぐに、その場所に到着した。
  その場所に出た途端、視界いっぱいに海が広がった。
  この場所は、海の上を歩く橋みたいになっている場所だ。一方の岸を、大きな橋で繋いでいる。だから、周りにはなにもないし、私たちのすぐ下には海が広がっている。まるで、海の上を歩いているような感じ。
  綺麗な場所だと、ここに来るたびにいつも思う。
  だから、私とアリサちゃんの中で、ここで写真を撮ることは、初めから決まっていたのだ。
 「……いつ来ても、いい場所ね」
 「そうだね……」
 「……さて、じゃあ、撮りましょうか。すずか、そっち側に立ってね」
  もう二時間も経つと、アリサちゃんの指示も慣れたもので、テキパキと私に指示を出す。
  …………
 「…………?」
  ここで、私は違和感を覚えた。
  なにか、おかしなものを感じたのだ。
  それがなんなのか、私は数秒ばかり考えて……それから、気付いた。
  私たちはここにきてから、アリサちゃんと一緒にいろんなものを撮り続けた。
  でも、今日のアリサちゃんの写真は、ほとんど私が写っていて。
  そして、アリサちゃんは一枚も写っていない。
  それは、きっと良くないことだ。
 「ねえアリサちゃん。今日の写真、私ばっかり撮影してない?」
 「う」
  いつもは意見をきっぱりと言うアリサちゃんが、言葉を詰まらせた。
  やっぱり。
 「どうして?」
 「うう……」
  言葉を詰まらせるアリサちゃん。
  十秒くらいたっぷりかけてから、そっぽを向いたまま、まるでイタズラを咎められた子供のように、頬を赤らめて、いつものアリサちゃんらしくない声で、
 「…………私は、今日は、最初のカメラで、すずかを撮るって決めてたんだから」
  と。
  そう言われて、私の心臓は跳ね上がった。
  だって、好きな人にそんなことを言われて、嬉しくないわけがない。
 「アリサちゃん……」
  好きな人に愛情を注がれたいと思うのは、やっぱり当たり前のことで。
  好きな人に愛情を注がれて、嬉しいのは当たり前のことだから。
  だけど。
  最後の写真まで、私だけを撮ったら、いけないと思う。
 「アリサちゃん、一緒に写らない?」
 「……へ?」
  アリサちゃんにとって、私と一緒に写真に写るというのは、考えていなかったことみたい。
  だけど私は、アリサちゃんと一緒に写真に写りたい。
  一緒に写真を撮って、一緒の写真に写って、一緒の思い出を作って。そうやって、好きな人と、私はいろんなものを共有したいから。
  これも、私のわがまま、なんだけど。
 「アリサちゃん。一緒に、写ろうよ」
  頬を赤らめたまま、私のことを少し見つめてから、アリサちゃんはため息をついた。
 「……そうね。最後くらい、一緒に写りましょうか」
 「うん!」
  アリサちゃんは、すごく優しい。
  なんだかんだで、こうやって私のわがままを聞いてくれるのだから。
  甘えてばっかりじゃいけないな、とは思うんだけど、アリサちゃんには、いつも甘えていたいと思うのも、私の本当の気持ち。
  アリサちゃんは、橋の反対側の手すりにデジカメを置いてから、小走りで私の傍にやってきた。
 「タイマー、あと十秒くらいで作動するから」
 「うん」
  アリサちゃんが、私のすぐ隣にいる。
  それだけのことで、私はドキドキする。嬉しくて、幸せで、いつまでも二人で一緒にいられたらいいのに、といつも思う。二人で一緒に写真を撮ることが、こんなに幸せなことだなんて、思わなかった。
  私たちは、二人一緒に、カメラのファインダーを見つめる。
  そうして、タイマーが作動するまで、残り三秒くらいになったとき。
  不意に、身体を引っ張られる感じがした。
  私が、アリサちゃんに肩を抱かれたのだと理解できたときには、すでにシャッターが下りた後だった。それから、ピー、と、バッテリーが切れたことを示す電子音。
  だけど私たちは、離れなかった。
  私は、アリサちゃんに肩を抱かれたまま。
  アリサちゃんは、私の肩を抱いたまま。
  言葉なんて、今の私たちの間には必要なかった。
  ただ、お互いを感じあっていたい。
  そして今日の私は、アリサちゃんにもっと甘えていたい気分だった。
  だから、思いきって、私はアリサちゃんの身体に抱きついてみた。
 「すずか……」
  アリサちゃんは、私のことを拒否することなく、むしろふんわりと、優しく、私のことを抱きしめてくれた。
 「アリサちゃん……」
  こうしていると、アリサちゃんの温もりが伝わってくる。私のことを優しく抱きしめる腕から、アリサちゃんの優しさが伝ってくる。こうやって、抱き合っているときでも、アリサちゃんは優しくて。
 「……どうしたのよ、急に」
 「……なんとなく、かな」
 「……そう」
  ぎゅっと、アリサちゃんが私を抱きしめる腕に力を込めた。私もお返しに、アリサちゃんの背中にまわした腕に込める力を強くする。それから、顔を上げて、アリサちゃんの顔を見つめた。
  アリサちゃんは、はにかんだような笑顔をして、私のことを見つめていた。
  うん。きっとこの笑顔は、私にしか見せてくれない笑顔だ。
  それは、私の自惚れなのかもしれない。
  でも、私の大好きな人なんだ。恋人さん同士なんだし、そのくらい、アリサちゃんも私のことが好きだと思うことくらい、許してくれてもいいと思う。
  私は、アリサちゃんの胸に顔を埋めた。
  柔らかくて、暖かくて、いい気持ち。
  アリサちゃんのいろんな笑顔が、見ていたいから。
  アリサちゃんの温もりを、感じていたいから。
  アリサちゃんのことを、ずっと好きでいたいから。
  私は、ずっとずっと、アリサちゃんの傍にいたいと思います。
 「大好きだよ、アリサちゃん」