聖王教会の歴史は、後に聖王戦争と呼ばれる時代まで遡る。
  戦乱と混乱の続くベルカの戦争を終わらせるために尽力した、かつての聖王の一族。人々は結果として戦争を終結に導いたその戦争を聖王統一戦争と呼び、聖王戦争後、戦争を終わらせた聖王とその一族を信仰する聖王教会が設立され、今に至る。
  もっとも、『戦争を終わらせた』といえば聞こえがいいが、実際には、聖王一族が戦争に勝利したためにそう言い伝えられているだけである。歴史上において『自分が正義である』と主張することが戦争の勝利者に許される特権であり、皮肉でもある。
  何にしても、聖王教会が聖王を信仰しているということに変わりはない。
  今では聖王教会は、ベルカ自治区と呼ばれる国をミッドチルダの北部に設けている。
  ベルカの歴史と伝統は、古代ベルカの土地が失われた今でも脈々と受け継がれている。
  そんな聖王教会の、とある場所。
  ベルカでは騎士と呼ばれる魔導師たちが訓練を行うための場所として設けられた、聖王教会本部の近くにある開けた場所。周囲を石材を積み重ねて作られた壁と固定式の魔力防壁で囲まれた、一見するとグラウンドのようなところである。
  そこに、件の主人公、ヴィヴィオがいた。
  ヴィヴィオの正面、ほんの三メートルほど離れた場所で相対するのは、聖王教会の修道騎士、シャッハ・ヌエラ。多くの騎士を抱える聖王教会でも腕利きの、魔導師ランクAAA級の騎士である。
 「さて、ヴィヴィオさん。お身体の具合はいかがですか?」
 「あ、ええと、もう大丈夫です。痛くないですし、まだ完治はしてませんけど、訓練には問題ないです」
  少し舌足らずな声で答えるヴィヴィオの額には、未だ簡素な絆創膏が貼り付けられていた。
  聖王教会に属するとある騎士に襲われた友人を助けるためにヴィヴィオが怪我を負ったのは、ほんの一週間前のことだ。
  ヴィヴィオは元々、普通の生まれをした人間ではない。
  かつての聖王の遺伝子情報を元に生み出された、言うなればクローン人間である。それでも、身体の構造そのものは人間と大差ないのだが、ヴィヴィオのオリジナル体が聖王であり、ヴィヴィオ自身も聖王の一族が所有していた固有スキルを所有し、聖王の一族が途絶えている現代では、聖王の血を受け継ぐヴィヴィオは聖王陛下、ということになる。
  そのことが原因で友人が襲われたということに、ヴィヴィオは少なからずショックを受けた。
  ヴィヴィオの登場、ひいては聖王陛下の復活を機に、失われた聖王の技術を取り戻そうという動きが、聖王教会の上層部を中心に生まれていた。ヴィヴィオの友人を襲ったのは、聖王教会の上層部でも、強硬派の幹部とそれに賛同する騎士たち、と言われている。
  彼らは手段を選ばず、ヴィヴィオと同じ『聖王の証』を所持しているという理由だけで、無関係のヴィヴィオの友人を巻き込んだのだ。彼らの頭にあるのは、ただひたすらに、聖王を信仰し、その失われた遺産を取り戻すことのみ。
  すべては、信仰に殉じるために。
  ヴィヴィオは必死の戦いの末に友人を助けることに成功したが、同時に己の無力さを思い知った。
  新しい相棒の助けがなければ友人一人助けられないことを、ヴィヴィオは情けなく思ったのだ。
  こんなことでは、強くて優しい、憧れの人たちには追いつけない。
  だからヴィヴィオは、失われた古代ベルカの技術、聖王の魔法を習得することを選んだ。
  聖王の血を受け継ぐ自分になら、それができる。
  友達をこれ以上危険な目に合わせないために。
  強くて優しい、憧れの人たちのようになるために。
  ヴィヴィオは今、ここにいる。
  ヴィヴィオが聖王陛下の血を受け継ぐことを知っているのは、かつて機動六課にいた人たちと、聖王教会の上層部。それと、ほんのごく僅かの人物だけ。
  ヴィヴィオの目の前にいるシャッハ・ヌエラは、ヴィヴィオが聖王陛下であることを知る数少ない人物であり、そして、これからヴィヴィオの指導者となる女性である。
 「こちらがザイフリートです。確認してください」
  ひどく穏やかで丁寧な言葉と共にシャッハが差し出したのは、ひし形十字をかたどったペンダント。
  ヴィヴィオはシャッハに歩み寄り、それを受け取る。
 「久しぶり、ザイフリート」
 『お久しぶりです。お嬢様』
  機会音声化された初老男性の声。まるで、主君に仕える老執事のような口調。
  ザイフリート。
  かつて聖王の一族で使用されていた、古代ベルカ式のアームドデバイス。ほとんどロストロギア級の古代技術に、現代の最新魔法技術を組み込み、ヴィヴィオの魔力に合わせて調整された、ヴィヴィオの新しい相棒だ。
  ザイフリートを受け取り、ヴィヴィオは元いた位置に戻り、身構える。
  いつの間にか空気が張り詰めている。ほんの数秒前とは、周囲の雰囲気から明らかに違う。
  周囲の空間すら支配してしまうほどの闘気。
  これが、エース級の実力か。
  まだ身構えてもいない眼前の騎士と目を合わせるだけで、足がすくむ。肌がピリピリする。まだなにもしていないのに、息苦しくてたまらない。思わず目を逸らしたくなる衝動にかられる。
  だけど、ヴィヴィオは目を逸らさない。正面からしっかりと、シャッハの瞳を見つめる。
  目を逸らしたら呑まれてしまうことを、ヴィヴィオは本能的に感じていた。
 「それではヴィヴィオさん。準備は、よろしいですか?」
  口調は相変わらず穏やかだが、すでに目が笑っていない。
 「……はい」
  シャッハの瞳を見つめたまま、ヴィヴィオは頷いた。
  それを肯定の合図と見なしたのか、シャッハは自身の双剣型アームドデバイス、ヴィンデルシャフトを機動、変則的な形の二振りの大剣をトンファーの如く構え、
  次の瞬間には、ヴィヴィオの懐に入り込んでいた。
 「!?」
  反応すらできなかった。
  ここにきてようやく、ヴィヴィオは思い出す。
  シャッハの得意な魔法のこと。
  彼女はそのデバイスの形状から、近接戦闘特化型と誤解されることが多い。
  実際には彼女は、移動系、特に空間跳躍系の魔法を得意とする騎士なのに。
  彼女にとって、三メートル程度の間合いなど、無いも同然だったのだ。
 「ザイフリート――」
  反射的にザイフリートを機動しようとするヴィヴィオだが――シャッハのスピードには、間に合わない。
  シャッハがヴィンデルシャフトを振りかぶったと認識した一瞬後には、ヴィンデルシャフトが身体に食い込んでいた。不思議と、思っていたよりは痛くはない。ただ、大砲でもぶつかったんじゃないかと思うような衝撃の後、重力を無視して、身体が吹っ飛ばされるのを感じる。
  それだけで意識が飛びそうになる勢いで宙を舞い、数秒後に、確か百メートル近く離れた場所にあったはずの壁に激突した。ヴィヴィオの身体がぶつかった壁は石で作られているのに、ヴィヴィオの身体がめり込む。
  それだけの攻撃を受けたはずなのにしかし、ヴィヴィオはほとんど痛みを感じなかった。
  痛みを感じないことを不信に思い、その不信感をを一瞬で切り捨て、ヴィヴィオは攻撃に移る。今はそんなことを考えている場合ではない。身体を持っていかれながらも起動させたザイフリートの魔道回路を活用、一瞬でディバインスフィアを形成。その数は十。間髪入れず、それぞれの魔力球体の軌道・速度をランダムに設定しながら、シャッハに向かって放つ。
  百メートル近い距離も、魔力の弾丸には関係がない。バラバラの軌道を描きながらディバインスフィアは高速でシャッハ迫る。
  ヴィヴィオの魔力光によく似た虹色の魔力弾を、シャッハはヴィンデルシャフトで次々と叩き落す。十あった弾丸は九、八、六と数を次々と減らし、同時に百メートル近くあった間合いも瞬く間に詰められていく。
  迫りくるシャッハに、ヴィヴィオは動じない。
  次の手は、すでに用意されているのだから。
  魔力弾は全て打ち落とされ、間合いは再びゼロに。
  ヴィンデルシャフトを振りかぶるシャッハ。
  次の瞬間、シャッハの足元に、ミッドチルダ式魔方陣が展開、虹色の光で編み込まれた鎖が伸び、シャッハの身体に巻きつく。ヴィヴィオの放ったミッドチルダ式捕縛魔法、チェーンバインド。
  そうして、魔力の鎖がシャッハの身体の動きを完全に封じ込んだ。
  次は得意の砲撃魔法で、シャッハを撃ちぬく!
  そうヴィヴィオが考えるのと、背後から首筋に刃が当てられたのは、完全に同時だった。
  ふたつの大剣の刃が、鋏のことくヴィヴィオの細い首を挟み込む。刃と首の隙間はゼロ。ヴィヴィオがほんの少しでも動けば、首が切れてしまうような密着具合。ザイフリートを構えた体勢のまま、身体を硬直させる。
  繰り返して思い出す。
  シャッハの得意な魔法は、移動系。
  動きを完全に封じ込めるのに一秒は必要なチェーンバインドでは、彼女の動きを封じることはできないのだ。
 「――――」
 「…………」
  身じろぎすらしないシャッハと、身じろぎすら許されないヴィヴィオ。
  ヴィヴィオからはシャッハの表情は見えないが、一体彼女は、今どんな表情をしているのだろうか。
 「――――」
 「…………ふぅ」
  先に気を緩めたのはシャッハだった。
  ゆるいため息をついた途端に、周囲の雰囲気すらも変化する。先ほどまでの息をすることすら許されないような重圧はどこへ行ったのか。ほんの一瞬前まで真剣勝負が行われていたとは信じられないほど、訓練場の空気は穏やかなものだった。
  すっと、首を挟んでいた違和感も消えてなくなる。が、ヴィヴィオはすぐに身体を動かすことはできなかった。さすがに、殺気と共に首筋に刃物を当てられて、平然としていることはヴィヴィオにはできなかった。
 「もう大丈夫ですよ、ヴィヴィオさん」
 「――――――――っっぷはぁ!」
  シャッハの穏やかな声を聞いて、ようやく身体の自由を取り戻した。
  ためていた息をいっきに吐き出し、その場に崩れるようにへたり込むヴィヴィオ。
  よほど恐ろしかったのか、冷や汗まで流している。
  天を仰ぎ、呼吸を整える。
  そして、考える。
  二人が戦ったのは、時間にして二十秒にも満たない短い時間。
  二人とも、バリアジャケットすら展開していない。
  たったそれだけの時間で、自分は手も足も出なかった。
 「…………はぁぁ〜」
  大きなため息をつくヴィヴィオ。
  シャッハがとても強いことは知っている。それこそ、なのはママやフェイトパパに引けをとらないくらいに。
  しかし、だからと言って、二十秒ももたないのは、いくらなんでも短すぎるのではないか。
 「大丈夫ですか、ヴィヴィオさん」
  手を差し伸べてくれるシャッハは、いつもの優しいシスターに戻っていた。
 「……はい、なんとか」
  シャッハの手を握り、ヴィヴィオは立ち上がる。
  怪我の具合を確認するが、あれだけ激しい攻撃を喰らったのに、身体にはかすり傷ひとつ無い。衝撃で頭が少しフラフラするが、痛くないし、ほとんど健康体のままだった。
  シールドなんて、展開するヒマもなかったのに。
 「……ああ」
  少し考えて、ヴィヴィオはようやく自分の能力を思い出した。
  聖王の血を受けついた、聖王の一族のみが使える固有スキル。聖王の鎧。
  Sランク砲撃まで無傷で耐えることのできる、強固で堅牢な魔力の鎧である。
  聖王の鎧は、自分の意思で発動することができず、命の危機に瀕したときに反射的に発動される生態防御反応のような魔法である。これがある限り、ヴィヴィオはそう簡単には死ぬことはないのだが。
  その効果を実感して、改めて、自分が普通ではないことを思い知らされてしまう。
  私は、普通の女の子として生きていきたいのに。
 「…………」
 「しかし、すごいですね。今の攻撃なら、直撃するだけで即死してもおかしくはないのですが。さすが、聖王の固有スキルです」
  さらっと恐ろしいことを発言するシャッハ。
  つまりあなた、本当に殺す気で攻撃してきたということですか。
 「Sランク砲撃までなら完全に防御することができる、聖王の鎧。ですが、それは自分の意思で自由に発動できるものではありませんね?」
 「……はい」
  そうなのだ。
  聖王の鎧は、ヴィヴィオの意志で発動できるわけではなく、あくまでも命の危機に陥ったときに勝手に発動するものだ。そのため、先日の事件のような、命には関わらない程度の脅威には発動せず、また、例えばSランク砲撃を喰らったからといって、これからも発動する保証は無い。
  強力な固有スキルではあるが、発動が不安定で自力でコントロールできないという、大きな欠点も抱えていた。
 「古代ベルカの文献によると、聖王の鎧の欠点はかつての王族たちも認識していたようです」
  それは、ヴィヴィオにもなんとなく分かっていた。
  固有スキル『聖王の鎧』は、完全ではない。
 「そのため、かつての王族たちは、まず『聖王の鎧』という固有スキルを応用した技術を確立させました。それが、聖王の魔法、と呼ばれる失われた技術の、最初の段階なのだそうです」
 「応用……」
 「はい。ですのでヴィヴィオさんには、文献を頼りに、まず『聖王の鎧』の応用技術から習得していただきます。大丈夫ですか、ヴィヴィオさん」
  聖王陛下としてではなく、生物兵器としてでもなく、普通の女の子として生活したい。
  それは生物兵器として生み出され、聖王の資格を持つヴィヴィオの切実な願い。
  だけど。
  普通の女の子、では、友達を護ることができなかった。
  普通の女の子、では、憧れの人たちに追いつくことはできない。
  だから私は、失われた聖王の魔法を習得することを決意した。
  すべては、憧れの人たちみたいに、大切な友達を護ることのできる、強くて優しい女の子になるために。
 「はい」
  自分でも意外なくらいにしっかりと、ヴィヴィオは答えた。
 「素晴らしいです。さすがは聖王陛下ですね」
 「ですから、陛下って呼ぶのやめてくださいよー」
 「ふふふ。それだけ元気があれば、大丈夫でしょう」
 「むー」
  頬を膨らませるヴィヴィオ。
  やっぱり、陛下と呼ばれるのは慣れない。と言うか、慣れたくない。
 「では、ヴィヴィオさん。バリアジャケットを起動してください」
 「え。あ、はい」
  言われ、ヴィヴィオはバリアジャケットを展開する。
  白を基調とし、しかし黒と黄色の意匠があしらわれたバリアジャケット。足元を包むのはロングスカート、そして左腕には銀色の籠手。髪の毛は頭の片側で結いあげられたサイドポニーに。
  憧れの人たちのバリアジャケットをモデルとした、ヴィヴィオだけの魔法の衣。
  シャッハもいつの間にか、いつもの修道女の落ち着いた服装からバリアジャケットに変化していた。両手にはもちろん、先ほどヴィヴィオを吹っ飛ばしたヴィンデルシャフトが握られている。
 「まずヴィヴィオさんには、『聖王の盾』と呼ばれる技術を習得していただきます」
 「盾、ですか?」
 「はい。文献によれば『聖王の鎧』を意識的に部分的に発動させ、強固なシールドを作り出す技術のようです。これによって、『聖王の鎧』のような個人のみの自由度の低い防壁ではなく、応用の利きやすい指向的な防壁を発動させることができるようになります」
  聖王の盾。
  文字通り、魔力で作られた鎧を盾に変換して発動する技術。
  成程。これなら、誰かを護ることができる。
 「しかし、ヴィヴィオさんの意志で自由に発動できない『聖王の鎧』を、部分的にとはいえ自由に発動させる方法は、文献には残されていません。また、他の魔法と違って、魔法の発動方法が確立されているわけでもありませんし、方法を具体的に教えることのできる人も、現在では残っていません」
  言いながら、シャッハはヴィンデルシャフトを構えた。
 「そこで、実戦形式の訓練を重ねることで、ヴィヴィオさん自身にその感覚を閃いていただきたいと思います。今は、それが最善の指導だと思われますので」
 「…………え?」
  再びさらりと、恐ろしいことを言うシャッハ。
  普段は温和で修道女の鏡のようなシャッハは、実は意外と苛烈だったりする。
  ヴィヴィオの脳裏に浮かぶのは、シャッハのことを『暴力シスター』と形容する人物がいた、ということ。  「それではヴィヴィオさん。お祈りは、済ませましたか?」
  ニッコリと、いつも通りの笑みを浮かべるシャッハ。
  ヴィヴィオはそれに、苦笑いで答えるしかできなかった。 




  いつの間にか太陽がすっかりと落ちて、空は茜色に染まっていた。
  気温も下がり、ようやく野外でも過ごしやすい気候となる。
  夏休みだというのに、夕方の穏やかな雰囲気に混じって、遠くの方から掛け声が聞こえてくる。おそらくは学院の方で部活動に励む生徒たちの声だろう。
  聖王教会のとある訓練場の隅、大き目の木の木陰には、ヴィンデルシャフトを傍らに置き、涼しい顔で空を見上げるシャッハと、身体を完全に木に預け、ぐったりと俯くヴィヴィオの姿があった。細い身体のところどころについた痣が生々しい。
  すでに魔力も体力も残されていない。それどころか訓練の最後には、訓練場のど真ん中で倒れこみ、シャッハの助けがないと動くことすらできないという有様だった。今いる木陰にも、シャッハに運んでもらいようやくやって来たのだ。
  シャッハの訓練は、一言でいうならば超スパルタだった。
  訓練の最初にしたような、殺気がこもっていると言うよりも本当に殺す気があるとしか思えないような攻撃を次々と加えてきた。
  機動六課で見学した、なのはママの教導に匹敵するものがあるとヴィヴィオはそう思った。
  確かあのときも、丸一日なのはママの訓練を受けた四人は、訓練後にしばらく動けなくなっていた。
  これは、明日には酷い筋肉痛になっていそうだ。
  簡単なヒーリング魔法なら使えるが、それで果たして効果があるのかどうか。
  後で、借りた本を返すついでにユーノさんに治してもらおうかなぁ……。
 「おーい、シスターシャッハー、ヴィヴィオー」
  言葉の始まりは遠くの方から聞こえてきたが、言葉尻に近づくにつれて声の位置が段々近づいてきた。その声には聞き覚えがある。
  重い首を持ち上げて声の主を見る。彼女は半そでの修道服を着ていながら、普通の修道女とは違う、活発そうな笑顔をこちらに向けていた。右手でバスケットを抱え、左手を振りながらこちらに駆け足で近づいて来る。
 「シスターセイン」
 「…………セインさん…………」
  彼女の名前はセイン。
  シャッハの下でシスターと修道騎士の修行を積む、少し訳有りの駆け出し修道士である。
 「ヴィヴィオ、大丈夫?」
  近くにやってくるなり、セインはヴィヴィオのことを気遣う。
  その気持ちは嬉しいのだが、それに応える余裕すらないヴィヴィオは、頷くのが精一杯だった。
 「……全然、大丈夫じゃなさそうだね……」
  そんなヴィヴィオの様子に、セインは苦笑い。
  バスケットに手を入れ、取り出した容器をヴィヴィオに差し出した。
 「ほら、ヴィヴィオ。これでも飲んで、元気出しなって」
  セインが差し出したのは、教会印のスポーツ飲料。教会に所属する騎士に配布されている飲み物である。
 「……ありがとうございます、シスターセイン……」
  セインから容器を受け取り、中の飲み物をゆっくりと口に含む。喉は渇いているのだが、いつものように液体を飲み下すことができない。正直、容器を口元に運ぶために腕を動かすことすらも辛い。しかし、身体は激しく水分を欲している。その状態に合わせるために、少しづつ飲み物を口に含み、それからゆっくりと嚥下する。
 「シスターシャッハ、まさかアレをヴィヴィオに?」
 「ええ」
 「あれかー……」
  シャッハの言葉に、セインも苦い顔をする。どうやらシャッハの教導のスパルタっぷりにはセインも心当たりがあるらしい。
 「シスターシャッハ、教導となると途端に恐ろしくなるからなー」
 「中途半端な訓練をしては、相手の方に失礼です。それに、訓練というものはまず精神的にも肉体的にも追い込んでから初めて効果があるもので」
 「あーはいはい分かってます分かってますー」
 「あ、あはは……」
  ゆっくりと飲み物を嚥下しながら、シャッハとセインのやり取りに耳を傾ける。
  そのくらいの余裕が生まれるくらいには、身体が回復してきた。
  もっとも、自力で歩けるようになるためには、もう少し休まないといけない。
 「ヴィヴィオ、大変だったねー。シスターシャッハは、自分が気に入った相手には特に容赦がないから」
  笑顔でそう言うセイン。
  セインさんはいつも笑顔で明るいなぁ、とヴィヴィオは思った。
  セインは普通の人間ではない。
  かつて時空管理局転覆を目論んだ大犯罪者、J・スカリエッティに生み出された戦闘機人だ。
  今ではすっかり更正して、シャッハの保護の元、修道騎士として目下修行中である。
  自分と同じ、生物兵器。
  なんとなく境遇が重なるが、それ抜きにしても、ヴィヴィオはセインのことが割と好きだった。
  セイン自身も聖王教会での暮らしは意外と性に合っているようで、今ではすっかり聖王教会に馴染んでいる。
 「ほりゃ」
 「ひゃっ」
  いきなり、額に氷のような冷たさを感じ、思わず声を上げる。
  疲れた頭で、セインが自分の頭に凍ったタオルを乗せたのだと気付くのに、一秒近くかかってしまった。
 「身体、熱いでしょ? ヴィヴィオの身体が落ち着くまで私たちはここにいるから、ゆっくり、身体を休めなよ」
 「……ありがとう、シスターセイン」
 「はは、ヴィヴィオにシスターって呼ばれると、なんか照れくさいな」
 「ううん。セインは、もう立派なシスターだよ」
 「ありがと、ヴィヴィオ」
  それから、ヴィヴィオの身体がある程度回復するまで、三人でゆっくりとお話をしたのだった。 




 「それではヴィヴィオさん、ごきげんよう」
 「ごきげんよー」
 「ごきげんよう、シスターシャッハ、シスターセイン」
  教会流のお別れの挨拶を交わし、三人は別れた。
  シャッハとセインは教会に、ヴィヴィオは夏休みの間だけ住まわしてもらうことになっているカリムの屋敷に向かう。
  空と大地の切れ目にはわずかに茜色が姿を見せるが、ほとんどは濃い藍色に染まっている。あと十分もしないうちに、空は太陽の明るさを失って夜の世界になるだろう。辺りは薄暗く、街灯の明かりが心強い時間になりつつある。
  街灯無しで相手の顔を見極められるのも、あと数分のことだ。
  自然とヴィヴィオは早足になる。
  聖王教会や学院の敷地内は安全だ。最上級の警備で不審者は敷地内に入ることはできないし、何かあればすぐに助けがやってくる。
  ただし、それは普段のこと。
  その聖王教会の騎士に襲われる可能性がある今では、その安全性もあてにはならない。
  それに、例えなにもなくても、一人で歩く夜道は怖いものだ。
 「…………」
  一人黙々と、重い身体を引きずりながらカリムの屋敷を目指すヴィヴィオ。
  ここからカリムの屋敷までは、歩いて十分ほどで到着できる。確か、学院の敷地を横切るのが一番短い道だったはずだ。
  早く、帰ろう。
  教会や学院からヴィヴィオと同じように家路に着く人々に混じり、ヴィヴィオも歩く。
  そうして、魔法学院の正門までやってきたときのことだった。
 「おまちなさい!」
  突然、誰かに呼び止められた。
  その声は、ありえないくらい凛と澄んだ、毅然とした声だった。
  おぼつかない足を止め、ヴィヴィオは振り向く。
  ヴィヴィオの瞳に写るのは、一人の少女。おそらく年上だが、そうは変わらない年齢だろう。
  すらりと長い手足。さらさらと、僅かな風にもなびくブロンドの長髪。まだ幼さがあるが、それでも将来美人になることを確信させる、整った容貌。ただ立っているだけなのに、気品が全身からにじみ出ている。
  そしてなにより特徴的なのは、自信に満ちた瞳。
  碧い瞳は強い輝きを放ち、彼女の言うことには無条件で従わざるを得ないような魔力すらも有しているような気がした。
  ヴィヴィオには、この少女に見覚えがあった。
  このような強烈な印象を持つ少女を目にして、忘れられるハズがない。
 「あなたが、高町ヴィヴィオさんかしら?」
  眼前の少女に、ヴィヴィオは問われた。
 「……はい」
  目を合わせるだけで、呑みこまれてしまうような気がする。
  それほどまでに、その少女の存在感は強烈だった。
 「私のことは、ご存知?」
  ヴィヴィオは一瞬だけ考え、
 「……確か、エリーゼ・ダイムラーさん。ザンクト・ヒルデ魔法学院の初等科五年生で、初等科の現生徒会長」
  答える。
  これが、ヴィヴィオが知っている彼女の情報。
 「ご存知いただき、光栄ですわ」
 「でも、生徒会長さんが、私に何の用なんですか?」
 「……本日は、生徒会長としてあなたに用があるのではありません」
  エリーゼはしっかりと、ヴィヴィオの瞳を見つめた。
  あまりの眼力に、ヴィヴィオは思わず息を呑んだ。
 「高町ヴィヴィオ……いえ、聖王陛下としてのあなたに、用があります」
 「!?」
  エリーゼの言葉に、ヴィヴィオは心底驚いた。
  なぜなら、自分のことを聖王だと知っているのは、親しい人たちか、かつての機動六課関係者か、あるいは聖王教会関係者だけ。ザンクト・ヒルデ魔法学院が聖王教会の管理化にあるとはいえ、いち生徒会長が自分のことを知っているとは思えない。
  まさか、強硬派の刺客!?
  無意識に体勢を整え、首から提げているザイフリートを握り締める。
 「端的に申しましょう」
  ザイフリートを握り締める手に、力がこもる。
  エリーゼの行動次第では、こちらも魔法を使わざるを得ない。
  今の疲れきった身体で、どれだけ持ち堪えることができるのか。シャッハに助けを求めるにしても、シャッハがここに到着するまでの時間を稼ぐことができるのか。エリーゼの実力はどのくらいなのか。相手は本当に、エリーゼだけなのか。
  エリーゼの様子を伺いながら、ヴィヴィオは思考する。
  やがて、ゆっくりと、エリーゼの口が開く。
  薄い唇が紡ぐ言葉を聞き逃さないように、ヴィヴィオは耳を澄ませた。
 「私は、あなたを聖王陛下だとは認めません!」
 「……………………はい?」
  しかし、エリーゼから放たれた言葉は、ヴィヴィオが警戒していたこととはある意味で正反対のことだった。
 「聖王陛下とは本来、古代ベルカの地において長く続いた戦乱の世を終結に導いた偉大なる人物であり、失われてしまったその技術や魔法は、偉大なる聖王陛下の魔法を使用するに値する優れた人物によって習得されるべき尊く神聖なものです」
  ヴィヴィオの戸惑いをよそに、エリーゼは続ける。
 「それなのに聖王教会は、どういうわけかあなたのような普通の人間に聖王陛下の偉大な魔法を習得させようとし、それどころかあなたのことを聖王陛下と信仰する人までいるというではありませんか! そんなこと、私は認めません!」
 「……はぁ」
  どうやらエリーゼは、見た目に反して激情家のようだ。
  それに、今の話の内容からして、ヴィヴィオが聖王の失われた技術を習得しようとしていることは知っていても、ヴィヴィオの素性までは知らないらしい。
  一応は極秘事項になっている、ヴィヴィオが聖王の魔法を習得しようとしている事実をどういうわけか知っているのに、ヴィヴィオのことを普通の女の子だと思っているとは。なんとなく、皮肉な話である。
 「少し古代ベルカ式魔法の資質があるからという理由だけで習得していいほど、聖王陛下の遺産は甘くもありませんし、安いものでもありません!」
  そのことが納得いかない、とでも言わんばかりに、エリーゼは言葉を続ける。
  察するに、エリーゼは熱心な聖王教会の信者なのだろう。
  だから、ポッと出(に見える)のヴィヴィオが聖王の魔法を習得することが許せないのか。
 「ですので、私があなたのことを見極めさせていただきます」
 「え?」
 「高町ヴィヴィオさん。私は、聖王陛下と聖王教会の名において、自身の名誉と誇りと魔導にかけて、あなたに、尋常の決闘を申し込みます!」
  エリーゼはヴィヴィオをビシリと指差し、力強い声で、はっきりとそう宣言した。
  あまりに早く展開する状況に、ヴィヴィオは着いていくだけで精一杯だった。 




 「……と、いうわけなんです……」
 「まぁ。そのようなことがあったのですか」
 「はい……」
 「これは、困りましたね……」
  カリムが、嘆息の声を上げる。
  この出来事は、カリムにも予想外の出来事だったらしい。
  ヴィヴィオが初対面のエリーゼに決闘を申し込まれた、約一時間後。
  ヴィヴィオはカリムのお屋敷の食堂で、カリムたちと一緒に夕食を食べていた。
  カリムのお屋敷は大きく、食堂だけでも五十人くらいは余裕で食事ができそうな広さがあった。天井には見たこともないような大きなシャンデリアがぶら下がっており、カリムの傍らには執事さんが控えている。いかにもお金持ちの家、といった感じだ。それでも全然嫌味な感じがしないのは、カリムの人徳のおかげだろうか。
 「エリーゼ・ダイムラーさんですか。私も、彼女のことは存じています」
 「そうなんですか?」
 「ええ。ダイムラー家は、古くから聖王教会の上層部を担う、由緒ある家柄です。かつての聖王陛下の遠縁の方が創始者で、聖王陛下の血が途絶えた現代では、最も聖王に近い存在、と呼べなくもありません。私の記憶が正しければ、エリーゼさんはそのダイムラー家の長女で、確かとても熱心な聖王教会の信者だったと思います」
 「そう、ですか……」
  今、その広い食堂で食事をしているのは四人。
  家主であるカリムと、夏休みの間だけここに住むことになっているヴィヴィオ。それと、カリムが保護者になっている、オットーとディードである。
  オットーとディード。
  セインと同じくJ・スカリエッティに生み出された戦闘機人『ナンバース』の、もっとも遅く目覚めた末の妹の二人だ。今ではセインと同じく更正し、保護観察期間を終えて、保護者となったカリムの元で、修道女としての研鑽を積む毎日である。
 「僕も、エリーゼさんのことは存じていますよ」
  聖王教会での生活は、こちらもセインと同じように、意外と二人の肌に合っているらしい。
 「そうなの、オットー?」
 「ええ。話をしたことはありませんが、教会の礼拝室にいるのをよく見かけます」
 「そうですね。私も、ミサのたびに彼女のことを見かけます。いつも熱心にお祈りをして。あの年で、本当に敬虔な方だとは思っていましたが」
  オットーの言葉に、ディードが続ける。
  話の内容から思ってはいたが、どうやら相当の聖王信者のようだ。
 「私はエリーゼさんと少しお話をしたことがありますが、少々思い込みが強いと言いますか、熱心すぎて、聖王陛下を神格化しすぎているような感じがありました」
 「神格化、ですか……」
  夕食のおかずを口に運びながら、ヴィヴィオは思う。
  きっと彼女にとって、私は聖王の偉大さを貶した人物、に見えるのだろう。
  私のことを普通の女の子だと思ってる彼女は、聖王教会の信者ですらない私が、古代ベルカの資質があるだけで聖王の魔法を習得しようとすることが許せないのだ。聖王の魔法を習得することで聖王に近づきたい信者の人は沢山いるのに。古代ベルカ魔法の資質がある、というだけで。
  エリーゼ・ダイムラーさん。
  あの人は、私の存在を知って、いったいどういう気持ちだったのだろう。
 「それにしても、皮肉なものですよね」
 「何か? オットー」
 「陛下の話を聞く限り、エリーゼさんは陛下のことを普通の女の子だと思い、だからヴィヴィオさんのことを認めることができないようです。ヴィヴィオさんは、本当に聖王陛下なのに」
 「もー、オットー。私のことを陛下って呼ぶのは禁止っていつも言ってるでしょー」
 「これは失礼、陛下」
 「もー!」
  ヴィヴィオは、正真正銘聖王の資質を持ちながら、聖王扱いされることを嫌っている。
  聖王ヴィヴィオではなく、あくまでも、高町ヴィヴィオという普通の女の子として生きていきたい。
  それが、ヴィヴィオの願いでもあった。
 「まあ確かにヴィヴィオさんは聖王陛下でもありますが、それ以前に一人の女の子であることに変わりはありません」
  カリムの言葉に、ヴィヴィオ、オットー、ディードの三人が耳を傾ける。
 「そのことが今回の件を招いたのは、オットーの言うとおり皮肉としか言いようがありませんが、とりあえず今は、申し込まれた決闘の対策を考えねばなりません」
  カリムの言うとおりだ。
  今考えるべきは、申し込まれてしまった決闘の対策だ。
 「確か、聖王教会の騎士にとって、一対一の決闘はとても神聖なものなのですよね」
 「その通りです、ディード。聖王陛下の名の下に、己の誇りと魔導をかけて戦うのです。故に、ベルカの騎士にとって決闘とは軽々しく口にしていいものではありません」
 「つまり……それでも、決闘を申し込んできたエリーゼさんは……」
 「本気、ということでしょうね」
  聖王教徒の人たちにとって、聖王はとても偉大で、神聖な人物である。軽々しく聖王の名を語ることは聖王を冒涜する行為であり、敬虔な信者にとっては、それだけで聖王を侮辱したとすら感じてしまう。
  熱心な聖王教徒であるエリーゼが、聖王の名において決闘を申し込んだということは、彼女がそれだけ本気、ということ。
  その事実に、ヴィヴィオはただ困惑するしかなかった。
 「何にしても、決闘は受けなきゃいけないんですよね……」
 「決闘の日時はどうなっているのですか?」
 「三日後のお昼の十三時に、聖王教会の訓練場Tで、だそうです」
 「さすがに手回しがいいですね」
 「……はぁ〜」
  ヴィヴィオは今強くなるための修行中ではあるが、戦うこと自体が好きというわけでもない。
  必要のない争いは、できれば避けたいところだった。
 「……はぁ〜」
  できれば、普通の女の子として生きていきたいのに。
  世の中ままならない。ヴィヴィオは疲れきった頭で、そう思った。 




  時空管理局、無限書庫。
  次元世界で発行されたありとあらゆる書籍・情報が蓄積された、次元世界最大の超巨大データベース。
  しかし時空管理局の設立期から集められ続けた情報はあまりにも莫大すぎて、そこから有益で必要な情報を入手するためには、数人の専門家グループで数ヶ月単位の調査が必要だとされていた。
  しかし、十三年前に無限書庫の司書になり、現在では司書長を務めるユーノ・スクライアの働きにより、現在では無秩序に蓄積されていた情報はある程度は整理され、個人でも探査魔法さえあれば比較的効率よく情報を得ることができるようになってきている。
  全ての書籍を整理するにはまだまだ時間がかかり、足を運べばすぐに必要な情報が得られるようになるのはまだ相当先の話ではあるのだが、それでも、無限書庫の状況を大幅に改善したという、ユーノ・スクライア現司書長の功績は大きい。
  幼少期よりユーノと交流があったヴィヴィオは、自身が無類の本好きということもあって、その無限書庫の司書資格を有していた。魔法学院に通うようになってもしょっちゅう無限書庫に立ち寄っているので、ヴィヴィオにとって、無限書庫は自分の庭のようなものだ。
  今日、決闘の前日になって無限書庫に立ち寄ったのは、誰から調べものの依頼があったというわけではなく、純粋に本を読むためだった。本来ならこの時間は昨日までと同じようにシャッハとの訓練の時間だが、シャッハ曰く『決闘の前日は身体を休めてリラックスした方が良い』とのことなので、久しぶりに本を読みながらゆっくりしよう、と考えたのだ。
  ヴィヴィオにとって、この申し出はとてもありがたかった。
  シャッハのスパルタっぷりは相変わらずで、むしろ決闘が決まってしまい、初日よりより厳しくなったような気すらした。毎日のように自前の治癒魔法はかけているのだが、それでも全身が痛く、動くだけでも苦痛だった。
  明日までに治せるのかな、と少し心配でもある。
  そもそも、決闘をしなければならないこと自体が、ヴィヴィオの悩みの種だった。
  エリーゼの理屈は理解できる。
  敬虔な信者の人たちから見れば、聖王教会の信者ですらない私が古代ベルカ魔法の資質があるというだけで聖王の魔法を習得しようとするのは、きっと納得がいかないことなんだろう。熱心な聖王教徒のエリーゼさんだからこそ、そんな私を試そうとすることも分かる。
  分かっては、いるんだけど。
  だからって、争いごとは、できれば避けたい。
  こんなことをしても、辛いのは二人とも同じなんだから。
 「はぁ……」
  明日のことを考えるだけでため息が漏れる。
  軽々しく口にすることを許されない決闘だからこそ、一度口にしてしまえば、例えカリムでも覆すことはできない。それだけ神聖なことなのだから。
 「…………」
  考えても、仕方ないか。
  私がどう思っても、明日の決闘そのものは避けられない。
  なら今はとりあえず、この痛みきった身体と、動揺した心を休めよう。
  そのために、ここに来たんだし。
  頭を振って、ヴィヴィオは頭の中を切り替える。
  折角のお休みなんだし、有効に使わないともったいない。
  ふわふわと浮かびながら、ヴィヴィオはとりあえずそう結論づけた。
 「本、読もうかな」 
  無限書庫の内部は無重力空間になっていて、空を飛ぶことができない人でもふわふわと宙を舞うことができる。慣れない内は一切の束縛の無い浮遊感や、無重力化での移動に苦労するが、三年近くここに通い続け、司書資格まで持つヴィヴィオにとっては、ここでの移動はもうお手の物だ。
  なにもない空間を蹴り、勢いと反動だけで移動する。
  確かカリムが、面白い本があると言っていた。
  B.C.ベルカの歴史書。著者はよく分からないが、史実を基にした読み物として十分に面白いらしい。カリムの紹介してくれる本は職務柄古代ベルカ時代の本が多いが、基本的にハズレが無いので、前々から読みたいと思っていたのだ。
  本当に面白かったら、ルールーにも教えてあげよう。ルールーはこういう歴史書が大好きだし。きっと、喜んでくれる。
  自分と同じく本好きのルーテシアのことを思い浮かべながら、ヴィヴィオは無限書庫の検索ポイントまでやって来た。
  無限書庫には書庫というだけのことはあって本棚がそれこそ無限に置いてあるが、その本を一冊一冊調べていたら、おそらく一生をかけても足りない。だから、ここで本を探す場合には専用の検索魔法が必須だ。早い話が、インターネットの検索と同じである。検索魔法のキーワードを絞り込めばそれだけ正確な情報が手に入るし、曖昧なキーワードだったりするとそれこそ無限に関連書籍がピックアップされる。
  効率よく目的の情報を探し当てることも、司書の腕の見せ所だ。
  ヴィヴィオは足元にミッドチルダ式魔方陣を展開し、検索魔法を発動する。
  ザイフリートの補助がなくても、このくらいなら自分でできる。
 『検索魔方陣七式、展開! 指定ワード、古代ベルカ王族たちの日常。タイトル絞込み検索!』
  ヴィヴィオの詠唱と共に、ヴィヴィオの周囲に複数のミッドチルダ式魔方陣が展開される。
 『フルドライブ・オープン!』
  詠唱が完成し、展開された魔方陣が検索を始める。魔方陣を複数展開する場合、検索制度があがる分術者の負担が増し、魔法の動作そのものが重くなるのだが、ヴィヴィオは6つの魔方陣を展開し、なお平然とした顔で検索を実行する。
  本人曰く『ちょっと本が好きなだけの普通の女の子』
 「あ、でてきた」
  探索の結果、該当したのは一冊の本。この本がカリムのお勧めの本で間違いないだろう。
  本を手に取り、検索魔法を終了する。展開されていた魔方陣は一瞬で消滅し、再び何もない空間に戻る。
  ヴィヴィオは手にした本を抱えて、重力の存在しない無限書庫から、普通に重力があり、本を落ち着いて座って読むことのできる閲覧室へ向かう。今日は調べ物ではなく純粋に本を読みにきたのだから、本は普通に読みたかった。
  何も無い空間を軽く蹴り、移動するヴィヴィオ。
  自分以外に無限書庫にいる人にぶつからないように注意しながら出口に向かう。
  今は司書長のユーノはいないようだが、それでも無限書庫はいつも通り多くの人がいる。ヴィヴィオは司書の人たちとはほとんど知り合いなので、無限書庫の司書でない人はすぐに分かる。ここにいる知らない人たちは、大抵は事件の調べものできた管理局の職員だ。
  そして今日は、無限書庫には面白いお客さんが訪れているようだ。
  その人物を、ヴィヴィオは一般開放区域で見かけた。一瞬見間違いかとも思ったが、彼女のような存在感のある人物を見間違えるはずも無い。なにより、あれだけ強烈な印象を与えられて、実間違えろというのが、どだい無理な話だ。
  ちょうど彼女もヴィヴィオの存在に気付いたらしく、驚きの目でこちらを見つめる。
 「あなたは……」
 「エリーゼさん……!」
  時刻は、昼下がりの穏やかな午後。
 また何か、ひと悶着起こりそうな雰囲気だった。