聖王教会。
  かつて古代ベルカ時代の戦乱末期に活躍し、形はどうあれ戦争を終結させ、世界を一応は平定した聖王陛下を信仰する、この世界でもかなりの規模を誇る聖王教の、総本山。ミッドチルダの北部にベルカ自治区と呼ばれる独自の国家のようなものを保持し、その場所で聖王の教えを説いている。周囲が山々に囲まれているので緑が多く、聖王教の総本山としてだけでなく、自然の多い観光地としても人気の場所だ。聖王教徒にとっての聖地でもあり、教会があるだけに、結婚式も連日行われている。捉え方によっては、幸せの場所と言えなくもない。
  その聖王教会を中心に、最近この辺りを騒がせている事件がある。
  一部で、聖王信仰紛争と呼ばれる事件。
  現代において、聖王と繋がりがある人――例えば、虹色の魔力光カイゼル・ファルベ。例えば、左右で色の違う瞳、聖王の印。例えば、聖王一族だけが使用することのできる特殊技能、聖王の魔法。――を所持する人物が、何者かに襲われ、拉致されそうになる事件。
  近年になって盛んになった、失われた聖王の技術を復活させようという活動が、その事件の発端になっていると言われている。信仰に殉じ、聖王のために全てを捧げ、聖王のために何を犠牲にしても構わない。そういう思考を持った狂信者達の犯行だと、関係者は予測している。
  この事件のたちの悪いところは、聖王と繋がりがあるとみなされただけで襲われた主な被害者が聖王教徒ですらない、まだ年端もいかない少女であるということ。今までに判明しているこの事件の被疑者が、全員聖王教会関係者であるということ。そして、捕縛された被疑者達は一人の例外もなく、事件の真相を尋問される以前に自害し、その裏側には聖王教会の上層部が絡んでいると予測されること、である。
  事件の特性上、おおっぴらに捜査をするわけにもいかず、また、事件の手がかりもほとんど掴めずにいた。そんなこの事件の解決の立役者となっているのは、この事件の主な被害者であり、中心人物。この事件が始まるきっかけともなった、一人の少女。
  彼女は、待っていた。
  待ち合わせの場所は、事件が初めて起こったあの場所の近くの広場。周囲を緑に囲まれ、目をやればすぐそばに森が広がっている。広場と言っても、整地されているだけで特別なものがあるわけでなく、少しのベンチや机があったり、時計が設置されているだけの簡素なものだ。子供達がここで遊んだりするには十分な広さがある。自然が豊富なので、ここにきてぼんやりとするのも悪くないかもしれない。
  その場所、設置された時計の前で、高町ヴィヴィオは待っていた。
  待ち合わせの時刻は午前十時。ヴィヴィオは早めに待ち合わせの場所に訪れたので、現在の時刻は午前九時五〇分。そろそろ夏の日差しが強くなり、気温が上昇してくる時間帯だ。
  後もう数分もすれば、待ち人がやってくる。
  その事実に、ヴィヴィオは無意識に握っている手に力を込めた。
  できれば、思い違いであって欲しい。自分の勘違いで、気のせいであって欲しい。
  昨日の夜から、ずっとそんなことを考えていた。
  うまくいけば、この事件は解決する。これ以上の被害者を、犠牲者を増やす前に、この世界に平和が戻ってくる。もちろん、ヴィヴィオはこの事件が解決し、平和な日常が戻ってくることを心から望んでいる。しかし、それと同時に、今日これから起こる出来事で、この事件が解決しないことも望んでいた。
  何故ならば、今日これからヴィヴィオがしようとしていることは――
 「ヴィヴィオ」
  不意に聞こえた声に、全身がビクリと反応してしまう。
  やたらとうるさい心臓の音を意識しながら、ヴィヴィオは声のする方に振り向いた。
 「早かったね。まだ時間に余裕があるよ」
 「待ち合わせの時間に早めに集合するのは、当り前だと思うよ。ヴィヴィオもそうするでしょ?」
 「まぁ、ね。……ごめんね、こんな時間に呼び出したりしちゃって」
 「ううん。いいよ。今日は私もすること無かったし。一日暇に過ごすのも悪くないけど、やっぱり友達と、ヴィヴィオと一緒にいることの方が楽しいよ」
 「ありがとう」
 「いいって。それに、エリーゼさんも来るんでしょ? まだ来てないみたいだけど」
 「エリーゼさんは……用事があって、少し遅れるって。だから、先に行っててください、だって」
 「そっか。じゃ、先に行って待ってようか。今日は何処に行くつもりなの、ヴィヴィオ?」
 「騎士カリムが、教会騎士さん達の仕事を見学させてくれるんだ。だから、まずは聖王教会に向かうよ」
 「成程。じゃあ、朝から参加できなくて、エリーゼさんは残念だろうね」
 「きっとね。エリーゼさん、騎士カリムのこと、本当に好きだから」
 「……いつまでも、ここにいても仕方ないね。じゃあ、行こっか。ヴィヴィオ」
 「うん。そうだね」
  言い、彼女はヴィヴィオに背を向けた。
  その瞬間をヴィヴィオは見逃さず、予備動作なしに一瞬でザイフリート第二形態、バルムングフォルムを起動。その刃を、背後から、彼女の首筋に押しあてた。
  首筋に刃を押しあてられ、彼女は歩を止めた。
 「…………ヴィヴィオ、どうしたの? 冗談にしては、たちが悪いと思うんだけど」
 「ごめんね。だけど私は、ここではっきりさせないといけないんだ」
  だけど、心のどこかで、ヴィヴィオは確信していた。
  予想は覆らない。私が気付いてしまったことは、正しい。
  だから、一縷の望みをかけて。泣きそうになる自分を抑え込みながら、問う。
 「あなたは……この事件の犯人なの? アリカ・フィアットちゃん」












  静寂。
  二人の周りには、不自然なくらい誰もいない。
  人通りが少ない場所を、ヴィヴィオが選んだのだ。
  くしくもこの場所は、最初の事件が起こった場所の近く。
  その森は、ヴィヴィオの視界に収まっている。
 「……どういうことなのかな、ヴィヴィオ?」
  首筋に刃を当てられながら、アリカが尋ねる。ヴィヴィオの気分次第で首が刎ねられる状況だというのに、いつも明るいアリカからは想像もできないくらい、不自然なほど、静かな声だった。
 「……一番最初に、アレ? って思ったのは、最初の事件、私とアリカちゃんが、あの森の中で襲われたあの事件の直後だった。とは言っても、私はその違和感が何なのか、その時には分からなかったけど」
  有り得ないくらい、涼しい表情を崩さないアリカ。
  その表情に、嫌な予感を感じつつ、ヴィヴィオは、話を続けた。
 「次におかしいと思ったのは、エリーゼさんとの決闘の時に起こった事件。私が、あの黒色の結界に閉じ込められた事件。事件の後に、アリカちゃんが、避難勧告の出た訓練場に残って、私達の無事を祈ってずっと祈ってくれていたって聞いてから」
 「どうして、それがおかしいことなの? 友達が危険だったら、その無事を祈ってお祈りすることは、普通のことだと思うんだけどな」
 「だって、アリカちゃんがお祈りをするなんて、有り得ないんだから」
  ヴィヴィオは、覚えている。
  以前、アリカが吐き捨てるように言った言葉。大好きだった母親を失って、心身共にズタボロだったアリカが言った言葉。
 『神様なんて、この世にはいないんだね』
  アリカは、神様を否定している。
  だからこそ、アリカが神頼みなんてことを絶対にしないことは、アリカが一番酷い状況だった時からアリカと友達である、ヴィヴィオが一番良く知っていた。
 「私は知っている。アリカちゃんが、月一の礼拝の時間のお祈りすら、否定していたことを。だから、アリカちゃんが、私達のためにお祈りをするなんて有り得ない。アリカちゃんにとって、友達の危機にお祈りするということは、友達を地獄につき落とすことを願っているのと同じ。そのくらい、アリカちゃんは神様が大嫌いなんだから」
  アリカがお祈りをすることなど有り得ないと、ヴィヴィオは確信している。
  だから、あの場所でしていたことはお祈りじゃなくて、なにか他の目的があったのだと考えた方が自然だった。
 「でも、それだけで私を犯人だと決めつけるのは早いんじゃない? 私だって、お祈りするかもしれないんだし。何も、大嫌いな神様にお祈りしてたとは限らないよ?」
 「……私もそう思った。だから、無限書庫で調べ物をした。アリカちゃんと、エリーゼさんと一緒に。あの時、私達はこの事件の手がかりをまったく見つけることが出来なかった。このことも、おかしいなと思った要因」
 「私が、資料をわざと隠していた、渡さなかった、って言うこと?」
 「違う。あの時アリカちゃんは資料の片づけとかをしてもらってたし、そういうことはできない。私がおかしいと思ったのは、もっと別のこと」
 「?」
 「私はずっと、無限書庫の司書として、いろんな資料を検索してきた。無限書庫には本当に無限大の本がある。ミッドの歴史もベルカの歴史も、探せばきっと全部ある。だから、無限書庫であれだけの調べ物をして、一切の資料が見つからないなんて、それこそ有り得ないことだよ」
  それは、無限書庫を自分の庭であるかのように通い詰め、無限の本の中を自在に飛び回って、そこに埋もれていた歴史を見続けてきたヴィヴィオだから感じた違和感。ヴィヴィオが無限書庫で調べ物をしてきて、ただの一度も、その調べ物の内容が分からなかったことはない。無限書庫には、本当に無限大の本があるから。
 「無限書庫に手がかりが全然ない。そんなことは有り得ない。だから、思ったんだ。私達は思い違いをしている。信仰も、聖王の魔法に関する運動も、この事件には関係ないんじゃないか、って。この事件の根底は、もっと別のこと」
  追い詰めているのはヴィヴィオの方なのに。まるでヴィヴィオが追い詰められている。そんな錯覚すら覚えさせるほど、ヴィヴィオは辛い表情をしていた。
 「……それに、これが一番の原因、なんだけど」
  護ろうと思った友達を、糾弾している。そのことが、何よりも辛かった。
 「調べたんだ。『ブルースフィア事件』」
  それまでまったく変わらなかったアリカの表情が、少しだけ揺れた。
 「アリカちゃんのお母さん、ミラージュ・フィアットさんが死亡した事件。私が調べたのは、本局や聖王教会の事件記録じゃなくって、無限書庫の、事件記録」
  無限書庫に収められるのは、何も書籍に限らない。次元世界で起こった事件だって、立派な歴史のひとつである。そのため、時空管理局、あるいは聖王教会の管轄となった事件のレポートは、それぞれの担当部署だけでなく無限書庫にも収められる。そして、その事件の内容によっては、実質的な禁書扱いになっているものもある。
 「聖王教会では、この事件をミラージュ・フィアットさんが担当していた。だから、事件記録にはミラージュさんのデータと、その関係者の簡易データくらいなら記載されている。名前と、年齢、血液型みたいな、簡単な情報。その簡単な情報の中には、当然魔力資質も含まれる」
  何故なら、魔法が生活の中心となっているこの世界において、個人の魔力資質情報というものは、血液型並に重視される個人情報なのだから。
 「聖王教会に残されていた資料には、アリカちゃんの魔力資質については書いていなかった。でも、無限書庫に残されていた情報は、違った。……聖王教会に残っていた資料と違って、改ざんされて、いなかったんだ」
  無限書庫の情報には手が出せなかったんだね。ヴィヴィオは、そう呟いた。
 「それは、無限書庫に残っていた情報が間違いなんじゃないの?」
  アリカの声に、ヴィヴィオは苛立ちを感じる。
  どうして、そんなに落ち着いているの?
  どうして、否定してくれないの?
  私に、最悪を信じさせないで欲しいのに。
 「無限書庫に残されていたブルースフィア事件の資料は、実質的に禁書扱いだったんだ。当然だよね。秘匿級ロストロギア、ブルースフィアに関する事件なんだから」
  禁書扱いの資料であっても、正当な理由と許可さえ下りれば閲覧することはできる。そうでなければ、資料としての価値はない。そう言う意味では、ヴィヴィオのどんな資料でも見ることのできる現在の立場は、都合が良かった。
 「でも、それだけじゃ」
 「うん。それだけじゃ、絶対とは言い切れない。だから、もうひとつ、調べてもらったんだ。騎士カリムの義弟であり、本局の査察官でもある、ヴェロッサさんに」
 「…………」
 「アリカちゃんは知らないと思うけど、ヴェロッサさんは、思考捜査っていう能力を持ってるんだ。相手の心や記憶を読み取る、査察官としては最高の能力。聖王の魔法じゃない、ヴェロッサさん特有のレアスキル。その能力で調べてもらったのは、……私自身」
 「どうして、それが一番の証拠になるの?」
 「……調べてもらったのは、私の記憶。一番最初の事件で感じた違和感の原因を確認するため。アリカちゃん……あの時、自分は魔法が使えないから反抗することも逃げることもできなくて、習ったばっかりの思念通話を適当に飛ばして、誰かに助けを呼んだんだって、言ったよね?」
 「……言ったよ。だって、私は魔法が使えないんだし。記録でも、そうなってたでしょ?」
  無限書庫で調べ物をした時に、ヴィヴィオ達は同時に現代の聖王に繋がる人達のパーソナルデータを調べた。それによれば、アリカの魔力資質はランクE。思念通話といった簡単な魔法はともかく、本格的な魔法はほとんど使えないと同義の記録が、戸籍には記載されていた。
 「うん。それは私も見たよ。……でもね、アリカちゃん。私は、ちゃんと覚えていたんだよ」
  記憶は嘘をつかない。記憶違いがあるとすれば、それは、頭の中にしまいこまれた記憶の引き出し方を間違えたため。正しい引き出し方をすれば、正しい情報を得ることができる。
 「最後の瞬間……私が、ディバインバスターを放つ時。アリカちゃんは、何をしていた?」
  ヴィヴィオは自分の記憶を覘いて、改めて認識した。
  ディバインバスターの直撃を喰らう大男。彼はヴィヴィオの砲撃を回避しなかった。いや、できなかった。何故ならば。
 「アリカちゃんが発動させた、バインドによって身動きを封じられていたから……」
  あの時は、それどころじゃなくて気が付かなかった。上空で砲撃のチャージをするヴィヴィオには見えにくいようにバインドをかけていたから、その時に気付くことはただでさえ困難だったのだ。
 「それに、さっき言った無限書庫での事件記録。そこにも、アリカちゃんの魔力資質について、はっきりと書いてあったんだよ」
  少しづつ、追い詰めていく。
  それと同時に、ヴィヴィオ自身も、追い詰められていた。
 「どうして……魔法が使えないってことになっているの? どうして、魔法が使えるのに、使えないって、そんなことを言うの?」
  ザイフリートを持つ手が、小刻みに震える。
 「……お母さんが死んでショックだったから、って理由じゃ、駄目なのかな?」
 「……有り得ないよ。だってアリカちゃんが言ったんだよ。『私は、強くて優しい魔法を使うお母さんが大好きだった』ううん、『お母さんが、今でも大好きだ』、って。だから、アリカちゃんが魔法を捨てることも、有り得ない。魔法はアリカちゃんにとって、お母さんに繋がるものだから」
 「…………そっか。ヴィヴィオは、私のこと、ちゃんと見ていてくれたんだね」
 「アリカ、ちゃん?」
  まるで、何でもないことを話すかのように……観念したかのように、軽い調子でアリカは話す。
  その声色に、ヴィヴィオは不安を感じずにはいられなかった。
 「……残念だな。ヴィヴィオには、嫌われたくなかったんだけどな。やっぱり、ヴィヴィオは頭がいいよ。たったそれだけの情報から、見つけ出すんだもの。私が、犯人だって」
  その言葉を聞いた瞬間、ヴィヴィオの視界が真っ黒になった。視覚も聴覚も触覚も知識も記憶も全てなにもかもが麻痺してしまったような、そんな気すらした。
  聞きたくなかった。信じたくなかった。
  覚梧していたハズなのに、心が大きく揺らぐ。
  どうしようもない不安が、ヴィヴィオのことを襲っていた。
  日常が音を立てて崩れた。その音が、聞こえてしまったのだ。
 「ここは、私は逃げるべきなのかな? 犯人として」
 「……無駄だよ。ここからは見えないけど、この広場の周りは、シスターシャッハや教会騎士の人達が包囲してるから。それに、エリーゼさんも」
 「エリーゼさんもいるの? じゃあ、逃げられないね」
 「お願い、アリカちゃん。抵抗しないで。そうすれば、弁護の機会がある……また、一緒に遊べるかもしれないよ」
  最後の望み。せめて、少しでも刑を軽くするために、投降を懇願する。
  全身の震えを必死に抑え込み、声が震えないようにすることで精一杯で。
 「そうだね。でも」
  咄嗟の状況に、反応できなかった。
 「こうすれば、話は変わるかな?」
  アリカの足元に、瞬時に魔法陣が展開した。その色は、アリカの片方の瞳と同じ、蒼色。
  その状況の変異に呼応して、隠れていた教会騎士達、シャッハ、エリーゼが飛び出す。
  しかし、もう遅い。
 「『聖王の檻』発動」
  その一言で。
  アリカとヴィヴィオを、黒色の檻が覆い隠した。 








  この感触には、覚えがある。
  外界と遮断されている。魔力的にも物理的にも、空間的にも。空気はある。だけど、その流れを一切感じ取ることはできない。魔力の流動も感じない。こちらから働きかけない限り、すべてのものはそのままであり続ける。そんな、閉ざされた空間。エリーゼさんとの決闘の時に訓練場を取り囲んだ、あの結界と同じ。
  唯一あの時とは違う点を挙げるとすれば、周囲の空間が闇夜のような黒色ではないということ。まるで、空に浮かんでいるみたいに、結界の内部は澄んだ空色をしていた。
 「……どうして」
  心は激しく動揺しているのに、頭は現状を冷静に把握している。自分のことなのに、そこだけ自分じゃないみたいに。私の揺らぐ部分と、まったく揺らがない部分。そのバランスがとれなくて、なんだか気持ち悪い。
  揺れ動くヴィヴィオの心が辛うじて絞り出した声は、掠れたものだった。
 「……それは、何の理由を聞いているのかな?」
  聞きたいことは沢山できた。
  聞かなければいけないことも、沢山ある。 
  だけど、心が、動かない。声を張り上げようと思っても、全然声が出ない。そのくせ、頭は妙に冷えている。きっと、これから起こることを頭は予測して、備えているから。こんなところで特訓の成果が出るなんて、皮肉なものだと思う。
 「……どうして、こんなことをするの?」
  たったの一言を紡ぎだすのに、とてつもない勇気と体力がいる。
 「決まってるよ。……ヴィヴィオなら、分かってくれると思うんだけどな?」
  対して、アリカは落ち着いていた。いや、いつも笑顔で明るかったアリカが、まるで別人のように冷静で、静かで、冷たかった。あまり感情のこもっていない声。揺れ動かない表情。何より、醸し出す雰囲気が、ヴィヴィオを突き放したもので。
 「…………お母さんのため、なの?」
  ヴィヴィオの言葉に、それまで表情をほとんど変えなかったアリカが、少しだけ微笑んだ。
 「うん。やっぱりヴィヴィオは、ちゃんと私のことを見ていてくれたんだね」
  どこか寂しげな、悲しい笑顔。
 「でも、アリカちゃんのお母さんは、もう……」
 「うん。分かってるよ。でもね、あるんだ。お母さんを、生き返らせる方法」
  アリカの言葉が、ヴィヴィオには信じられなかった。
  一度失われたものは、もう二度と取り戻すことはできない。死んだ人は、何をしても生き返らない。まかりなりにも、数年を生き、それ以上の知識と経験を得ることのできたヴィヴィオでも、それは知っていることだった。
 「そんな方法、あるわけ」
  あるわけがない。そう言おうとしたヴィヴィオは、アリカに遮られた。
 「プロジェクトF」
 「!?」
  アリカの放った一言に、ヴィヴィオは驚く。そんなわけがない。有り得ない。だって、プロジェクトFの情報とその技術は、秘匿情報のハズだ。それは、プロジェクトFで生まれた人をよく知り、そして自身もその技術の応用で生まれたヴィヴィオが、一番良く知っている。
 「……だよね。プロジェクトFで生まれた命。聖王、高町ヴィヴィオ」
 「……なんで、そのことを」
  有り得ない。有り得ない。そんな言葉だけが、ヴィヴィオの思考を埋めつくす。冷静さを保っていた頭も、完全に動揺する。聖王教会上層部関係者、エリーゼさんでも知らない情報を、誰にも言っていないヴィヴィオの秘密を、アリカが知っている。そんなことあるハズがない。あるわけがない。
 「知ってるよ。でもね、知ってるだけじゃだめなんだ。それ以上のことは、私には知ることができない。だから、私にはヴィヴィオが必要なんだよ」
 「ひつ、よう?」
 「お母さんを生き返らせる。その方法を知るためには、ヴィヴィオの身体を形作る生命操作技術の情報が必要なんだ。だから私は、ヴィヴィオのことを求めた。聖王教会の騎士をけしかけて、身柄を拘束しようとね」
 「そん、な、こと」
  あまりにも、ヴィヴィオにはショックなことが多すぎた。大切だと思っていた親友が、そんな理由で、私に近づいてきたのか。そう思うと、本当に辛い。結局、私のことをクローンだから、聖王だから。そんな目で見て、そんなことだけで、私に接していたのか。今までの日常が、アリカと過ごしてきた大切な時間が嘘偽りだったのか。そんな気がして、もう、泣くこともできなかった。
 「うん。そんなこと。でもそれは、私には絶対に必要なことだったんだ」
  夢だったら良かったのに。本気でそう思う。今この場所から逃げられれば。心は、逃げ道を模索している。空間を出る方法じゃなくて、このあって欲しくない運命の流れを、元に戻す方法を。そんな方法なんて有り得ないと、知っているハズなのに。
 「……なら」
 「?」
 「どうして、私のことを直接襲わなかったの?」
  ヴィヴィオの身体が欲しいのならば、それこそ問答無用でこの結界に閉じ込めて、疲弊させて、それからゆっくりと捕まえればいい。何も聖王協会の騎士をけしかけなくても、その方が確実で早い。現に、聖王教会の騎士は、ヴィヴィオを捕らえることを成功していないのだから。
 「……ヴィヴィオにね、嫌われたくなかったんだ」
 「……え?」
  しかし、ここにきて、アリカの言葉は、ヴィヴィオの予想外のものだった。
 「ヴィヴィオは、お母さんが死んでどん底にいた私のことを救ってくれた。それだけじゃない。その時からずっと、私のことをちゃんと見ていてくれている。友達でいてくれている。だから、私はヴィヴィオのことが大好き。お母さんがいない今では、誰よりも大切な親友……ううん、それ以上の気持ちで、私はヴィヴィオのことを見ていた」
  アリカの独白。
 「ヴィヴィオに出会うまで、私の世界は真っ暗だった。どんな色も光もない、白と黒、たったそれだけの世界。どんなこともつまらなくて、世界の全てがバカバカしくて、お母さんを殺した人が憎くて、私からお母さんを奪った神様が大嫌いで。だけどね。ヴィヴィオに出会ってから、私の世界に色が生まれたんだ。毎日が楽しくて、充実していて、幸せで。白黒だった私の世界は、ヴィヴィオの魔法の光みたいに虹色になった。……でも、なんとなく実感がなかった。私は、ヴィヴィオのことが大好き。でも、同じくらい私はお母さんのことが大好きだった」
  ヴィヴィオも知らなかった、アリカの想い。
 「だからヴィヴィオはせめて、何も知らないまま、全てが終わって欲しかった。何も分からないうちに全てが終わって、お母さんが生き返って。そうしたら、またヴィヴィオと一緒に生きていきたかった。今度は、エリーゼさんと、お母さんと一緒に」
  夢物語。
  今までの言葉は、建前に過ぎないのかもしれない。アリカの願いは、想いは、すべてこの一言に集約されている。ヴィヴィオはそう思った。
  たったひとつの、アリカの願い。
  それは、大切な人達と、穏やかで平和な日々を過ごすこと。
  だからこそ――――ヴィヴィオは、目が覚めた。
 「今からでも遅くないよ。アリカちゃん」
  アリカと過ごしてきた時間。
  アリカと共有してきた思い出。
  ヴィヴィオが知った、アリカの想い。
  それらすべてが、無駄ではなかった。
  ヴィヴィオに見えたのは、いつかの夢の中での出来事。
  夢の中でふわふわと浮かんでいる自分。これは夢だと意識できても、覚醒できるほどのはっきりとした自己を確立できない。ぼんやりとした感覚。
  唯一しっかりと確認できたのは、一人の女の子が、そこで泣いていること。
  大切な友達が泣いている姿。あの時助けたハズの友達は、心の中では泣いていた。あのときは良く分からなかった。でも、今ならわかる。アリカちゃんは今、泣いている。
 「死んだ人は、生き返らない」
 「そんなこと……」
 「分かってるよ。アリカちゃん」
  アリカはただ、落ち着いたまま表情を崩さない。
  しかし、ヴィヴィオには、アリカが泣いているように見えた。
 「助けるよ」
  あの時は、助けることができなかった。アリカちゃんが泣いているのに、手を伸ばしても届かなかった。だけど、今は違う。手を伸ばせば、アリカちゃんに触れることができる。言葉を、想いを、伝えることができる。
  手の震えも、心の揺れも、いつの間にか治まっていた。ごちゃごちゃになっていた頭の中も、不思議と澄んでいる。胸にあるのは、たったひとつの想いだけ。もう迷わない。するべきことが見えた。
  だから。
 「私が助けるよ。アリカちゃん」
  手にしていたザイフリートを振るう。一瞬でヴィヴィオの身体をバリアジャケットが包み込む。白を基調としたデザイン。憧れの、強くて優しい人をモデルにしたジャケットとロングスカート。左腕には銀色の甲冑。所々に見受けられる意匠は、管理局最速の執務官のものと同じだ。長くて癖のない髪の毛は、サイドでひとつにまとめられる。
 「助ける? 誰を?」
 「悲しみに囚われている、アリカちゃんを」
  断言する。
  アリカは今、囚われている。様々なものに囚われて、周りが見えなくなっている。冷静な考えができなくなっている。
  この事件の本当の真実、その裏側を、他でもないアリカが、分からなくなっている。
  だからヴィヴィオは助ける。大切な友達を。
  だからヴィヴィオは護る。きっかけをくれた友達を。
  だからヴィヴィオは救う。大好きな人が、きっとそうするから。
 「私が勝ったら、ゆっくりお話しよう。アリカちゃん」
  微笑むヴィヴィオ。
  その瞳が、大好きな人と同じだということは、誰も気付かなかった。












  一方、結界の外側。
  そこでは、エリーゼとシスターシャッハが背中を合わせ、周囲を警戒していた。そのすぐ傍には、同じように周囲を警戒する聖王騎士達。ただし、聖王騎士の数は、最初にいた時の三分の一程度となっていた。
  そして彼女らの周囲をぐるりと取り囲んでいるのは、二〇人近い聖王騎士達。彼らは明らかな害意を向けて、エリーゼ達のことを睨んでいた。すでにこちら側にいた騎士達の三分の一が突然襲撃してきた彼らに襲われ、地面に倒れ伏している。そして残りの三分の一が、敵側に寝返った。やられてしまった騎士達が生きているかどうか分からないが、どちらにしても、早く治療をしないといけない。
  しかし、敵に回ってしまった騎士達が、ここから動くことを許さない。さすがのシスターシャッハとエリーゼでも、二〇人以上の聖王騎士達の包囲網を突破して、ヴィヴィオの救出に向かうことは難しかった。
 「……最悪の状況、ですね」
 「ええ。ヴィヴィオさんが予測していたこととはいえ、かなり辛い状況です」
 「……応援は?」
 「駄目です。結界でこの広場が遮断されています。おそらく、結界を維持している術者を倒すまで、応援は望めません」
  エリーゼ達がいる広場は、アリカの発動させた結界とはまた別の結界で封鎖されていて、外部との交信がとれないでいた。待ち伏せを前提としていたためこちらの人数は少なく、残っているのも三分の一程度だ。この状況をヴィヴィオが予測していたとはいえ、対抗策を取ることもできず、結果としてかなり苦しい状況だった。
 「ヴィヴィオ……」
  エリーゼが気遣うのは、結界内に閉じ込められている友のこと。
 「アリカ……」
  友と呼ぶアリカに何があったのか、エリーゼは知らない。それがエリーゼの預かり知ることでない以上、エリーゼにはこの案件にこれ以上踏み込むことはできなかった。だから後は、全てがヴィヴィオにかかっていた。
 「……待っていてくださいね、ヴィヴィオ」
  しかし、だからと言って、全てをヴィヴィオに丸投げにするわけではない。アリカの心を救いだすことはできなくても、ヴィヴィオのことを助け、護ることくらいなら、エリーゼにもできる。
 「私も、すぐに向かいますから!」
  踏み込む。瞬間的に魔力を脚部に付加して爆発させる。十字槍のデバイス・ファーフニルを振りかぶり、敵となった聖王騎士達に切りかかる。それと同時にシスターシャッハも攻撃に移る。
  ヴィヴィオを助けるため、結界の外側でも、激戦が始まった。












             ※












  ミラージュ・フィアット。享年三十二歳。
  聖王教会に所属する魔導騎士。魔導師ランクは空戦S。十歳の時には騎士の登録をし、その時点でAAAクラスの実力があった。ベルカ式の騎士にしては珍しく、近接戦闘よりも中遠距離での詠唱魔法に長けていた。その美しくすらある魔法と気高く尊い信仰心、何より誰からも好かれる温厚で心優しい人柄に、仲間の騎士達からは『聖魔導師』のふたつ名で親しまれていた。
  聖王の遠縁の一族の出身。しかしそのことを知っている人物は現代にはほとんど残っておらず、正式には信仰の対象にはなっていない。本人にも、かつての威光を取り戻そうとする意思は全くなかった。また、聖王の魔法を使用できる資質も存在していないため、実質的に普通の魔導師と変わりはない。
  両親とは幼い頃に死別。何らかの事件に巻き込まれたと思われるが、詳細は不明。実家であるフィアット家と両親は絶縁状態だったため、頼れる身寄りがおらずその頃から聖王教会系列の施設で育てられていた。十歳にして騎士を目指したのは、自分のような子供を減らすため。
  子供好きで、暇があれば自分の育った施設に立ち寄り、子供達の世話をしていた。
  二十六歳の時に一人娘、アリカ・フィアットを授かる。元来の子供好きだったミラージュはアリカに最大限の愛情を注ぎ、アリカは順調に成長していた。また、アリカは六歳の時点でAA以上の魔力資質があり、ミラージュはアリカの将来にとても期待していた。
  聖王教会騎士団管轄内で発見されたブルースフィアを巡る事件の中で殉職。死因は出血死。死の直接の原因となったのが、仲間の騎士による裏切り行為。敵に対峙している時に、背後から突き刺された傷が元となった。直後に駆け付けた応援部隊の騎士によって助けられるが、治療の甲斐なく死亡。ミラージュを殺した騎士は、応援部隊の騎士によって捕縛される直前、自身の魔力を暴走させて自爆。その隙に、ミラージュが敵対していた何者かに逃走を許してしまう。ミラージュを刺した騎士はその逃走者の何かがきっかけで寝返ったものだと思われているが、詳細は不明。
  また、その時のブルースフィアは逃走者に奪取されており、次元世界全域に指名手配がかけられたが、三年たった今でも捕まっていない。