アリカのことを抱きかかえるヴィヴィオと、それに対峙する男。
  それほど大柄な方ではない。中肉中背の体格に、細面の顔。細い瞼から覗くのは黒色の瞳。そして、その男の顔で特徴的なのは、右目から右頬にかけて走る一筋の傷痕と、ヴィヴィオの前に姿を現した最初の頃から変わることのない、人のことを小馬鹿にするように歪んだ口元。おそらく、ヴィヴィオのことを嘲笑っているのではなく、普段からそうなのだろう。人が苦しむ様を見るのが心底楽しい、本気でそう考えていそうな男に、ヴィヴィオは不快感を覚える。
  普段からヴィヴィオは礼儀正しい方で、少なくても初対面の相手にそんな失礼な感情を抱くことはあまりない。それなのに、この男に限っては、一目見たときから……いや、その声を聞いた瞬間から、嫌悪しか感じなかった。それは、もちろんアリカを誑かしてこの事件を起こさせた人物だから、というものも含まれている。しかし、例えそのことがなくても、ヴィヴィオはこの男に不快感を感じるだろう。そのくらい、この男の存在そのものが、歪んでいた。
 「……あなたが、この事件の真犯人……アリカちゃんにプロジェクトFのことを教えて、聖王教会の騎士さん達を誑かして、この事件を起こした、張本人ですか?」
  アリカを抱きしめたまま、その男を睨みつけながら問いかけるヴィヴィオ。
  そのヴィヴィオに対し、男の返答は――顔全体を歪めた、嗤いだった。
 「……そうねぇ。あなたのその質問に答えるとすれば、イエスになるわね」
  次にその男は顔を歪めたまま、男であるのに女言葉でヴィヴィオの問いに答えた。その言葉に、声に、話し方に、ヴィヴィオはますます嫌悪感を募らせる。それは、いわゆるオカマ口調で話すからということでなく――その男が話したということそのものが、妙に気持ち悪かった。
 「あなたは……誰なんですか? 何が目的で、アリカちゃんにこんなことをしたんですか!?」
  ヴィヴィオは嫌悪感に耐え、問いを続ける。
 「ふふふ。やぁねえ、そんなに怖い顔しないでよ。カリカリしないでも、ちゃ〜んと答えてあげるから」
  声を聞くだけで、神経が逆撫でされる。どういう生き方をすれば、話すだけで相手に嫌悪感を与えることができるのか。どういう価値観を持てば、存在そのものが歪んで見えるのか。ヴィヴィオには不思議でならなかった。
 「まずは……自己紹介から。私の名前は、メアリ・フローラ・リーゲン。年は秘密。職業は……そうねぇ、あなた達風に言うと……次元犯罪者、になるのかしら」
  妙に甘ったるい声で自己紹介をする、メアリと名乗るその男。本名でないことは、ヴィヴィオにもすぐに分かった。信用ならない。その言動も、存在も。
  どうして、アリカちゃんはこんな人間の言うことを信じたのだろうか。
  そう、未だ腕の中にいるアリカに意識を向けて、異変に気付く。
 「アリカ、ちゃん?」
  アリカの瞳の輝きが、消えていることを確認し。
  次の瞬間に、脇腹に鋭い痛みを感じた。
 「……え?」
  頭で考える以前に、ヴィヴィオはアリカの身体を突き飛ばした。それは、例えるならば飛んできたボールを避けるような、身体を守るための反射行動。感情も意志も関係がない。身体を守るために必要だったから、ヴィヴィオはアリカのことを突き飛ばした。 
  そしてすぐに、自分の行動に気付き、脇腹の痛みに戸惑う。視線を痛みのある部分に向けると、右の脇腹のバリアジャケットが切り裂け、そこから血が流れていた。
 「っ……」
  痛みだけならば、人は案外耐えることができる。ただ、それが出血を伴うものだと話は変わってくる。出血というものは、程度によっては命の危険に直結する。それを人は本能で感じ取り、血液というものに無意識下で過敏に反応する。傷自体は大したことなくても、溢れる血液を見るだけで、人は容易に興奮状態に陥り、最悪意識を失う。人の身体の中を流れる原初の赤。
  内臓こそ傷ついていないものの、ヴィヴィオの傷はかなり深い。容赦なく傷口から血が溢れ出る。
  その、自分の身体から今までになく溢れ出る原初の紅色を見て、意識が遠のきそうになりながら、ヴィヴィオはグッと堪え、自分が突き飛ばしたアリカに意識を向ける。
  輝きのない虚ろな瞳を向けるアリカの手には血に塗れたシグルズが握られ、なにより……アリカは、メアリの傍らにいた。そのアリカを見て、確信する。今のアリカは正気ではない。操られている。
 「あなた……アリカちゃんに、何をしたの!?」
  気を抜けば吹き飛んでしまいそうな意識を必死で縫い付け、ヴィヴィオはメアリに問う。
  人を操る魔法は実際にいくつかある。肉体操作や精神操作。アリカはおそらく、精神操作がかけられているのだろう。ただ、違和感を感じるのは、アリカが自分のことを攻撃したとき、魔力の流れを一切感じなかったこと。精神操作のような高度な魔法であれば、魔法の流れを誰かに感じさせずに発動させるなど、ほぼ不可能なことのハズなのに。
  血を流すヴィヴィオの姿を見て、メアリは、また、嗤う。
 「なにって……私はただ、この子の後押しをしただけよ」
 「後……押し?」
 「そう。お母さんが死んで、悲しんでいたこの子を私は見つけた。小さい子供にとって、家族っていうものは自分の世界のすべてのようなものよ。あなたにも経験があるでしょう?」
  メアリの言葉にヴィヴィオは心の中で同意する。確かに自分も、保護されたばかりの小さい頃は、家族が……なのはママが、世界のすべてだった。
 「そんな子供が唯一の家族であるお母さんを、世界のすべてを失ってしまった時、その子は何を思うと思う? 大抵は、お母さんを生き返らせたいと思うわよね。生と死の概念も理解できていないような小さな子供なら、きっとお母さんを生き返らせる方法があるって考えちゃうものだしね。だけどそんな方法、小さな子供は知らないわ。だから、ほとんどの子供は時間が過ぎて成長して、時間が傷を癒していく間に、そんなことを考えなくなる」
  嫌な、予感がした。
 「でもね。じゃあ、お母さんを失ってすぐの頃に、お母さんを生き返らせる方法があるって知ったら、どうかしら? その方法が夢物語じゃなくて現実のものだって知ってしまったら、どうなるかしら? 囚われちゃうわよね。その考えに。現実を知り成長することもなく、夢物語に近い子供独特の妄想から抜け出すこともできず、時間に傷を癒されることもなく、ずっと、ずっと、お母さんを蘇らせることに囚われ続ける。」
  嗤いながら、メアリは続ける。
 「歪んじゃうわよ、子供の心。いい歳こいても、いつまでも子供みたいな妄想に囚われて。いつまでもお母さんお母さんって。そんな姿を見て、身も心もボロボロの傷だらけで、そのことに自分でも気付かなくて、人として朽ち果てていく様子を見るのが――堪らなく、愉しいわ」
  口元を醜く歪めて、メアリは嗤う。
 「楽しくて愉しくて樂しくて娯しくて、ああ、堪らない。ねえ、あなたも可笑しいと思わない? たったの一言、お母さんを生き返らせる方法がある。たったの少しの時間、詳しい説明、プロジェクトFの説明。たったのそれだけで、人の人生がこぉんなにも歪んじゃうんだから。滑稽だと、お・も・わ・な・い?」
  何なの、この人は。
  そんな……たった、それだけのために。この人の快楽のためだけに、他にもたくさんの人の人生が狂わされたの? たったそれだけのためにアリカちゃんの人生は狂わされたって、そんなことを言うの?
 「……でもね、この子。アリカちゃんは優しくて総明な子供だったわ。私がプロジェクトFの説明をしても、他の多くの子供達みたいに乗ってこなかったわ。『私のわがままのために、他の人の人生を狂わせたくない』ですって。たまに、他にもこういう子がいるのよ。本当に優しいわ。反吐が出るくらい」
  それなら、なぜ。なぜ、アリカちゃんの人生が狂わされてしまったの?
 「そう言う子には、私の能力を使えばいいだけ。知ってる?  強制催眠能力 ヒュプノ って」
 「それが、あなたのレアスキル?」 
 「チッチッチ。違うわ。魔法じゃなくて、超能力。私の能力は、人の心を覗いて、思いのままに操ること」
  一応、聞いたことはある。
  魔法を使わない精神の力のみで、不思議な現象を引き起こす人のこと。
  だけど、まさかこの人がそうなんて。
 「 強制催眠能力 ヒュプノ っていうものはね、完璧な能力に聞こえるけど、実際には本人が嫌がることはできないのよ。だから、例えばあなたに自殺しろって命令しても、まったく効果がないわ。でもね、その人の心の隙間に浸けこめばそうでもない。例えば、お母さんが死んじゃった、とか。そういうことがあったら、どうしても心に隙が生まれちゃうのよ。小さな子供なら、どんなに賢くても尚更。そう言う人の心の隙間に浸けこんで、お母さんを生き返らせる方法があるって囁けば、簡単よ」
  本当に心の底から楽しそうに語るメアリ。
 「そうやって、聖王教会の騎士達も操ったんですか?」
 「そうよん。信仰心が強いからこそ、信仰という心の隙間ができるのよ。一回でひっかからなくても、時間をかけて心を揺らせば簡単よ。信仰心が中途半端に強ければ強いほど、ね」
  メアリに対し、ヴィヴィオの中でひとつの感情が生まれ始めていた。
 「そうやってじわじわと心を責めていけば、完全に心を操ることもできるようになるわ。こういう風にね」
 そう言い、メアリが示したのは、メアリの傍でシグルズを構えるアリカの姿。
 「あなたのせいで!」
 「違うわよ、ヴィヴィオちゃん。言ったでしょ。私は、ただ後押しをしただけだって。プロジェクトFのことを教えて、それを実現するために邪魔な良心と優しさと躊躇いを、少し麻痺させただけ。それだけで、アリカちゃんはこの三年間、とっても素敵に動いてくれたわ」
  生まれて初めて。
 「ああ、そうそう。ちなみにね。これが一番傑作な話なんだけどね」
  ヴィヴィオは。
 「アリカちゃんのお母さん、任務中に死んじゃったじゃない? あなた達がロストロギア……ブルースフィアって呼ぶものを探す次元犯罪者に対峙してるときに、仲間に裏切られて殺されたんですって」
  心底可笑しそうに嗤うメアリに、殺意のようなものを抱いた。
 「あれね、私がやったの。私が一番心が弱かったあの人の仲間を操って、あの人を殺させたの。だってあの人、私の美しい顔に傷をつけたんだもん。ほら、見て。痛々しいでしょ?」
  言い、メアリは自分の右目から右頬にかかる傷を指し示した。
  ヴィヴィオはしかし、そんなこと、どうでもよかった。
 「アリカちゃんも滑稽よね。お母さんを生き返らせる方法を教えてくれた人が、お母さんを殺したんだから。そのことが心の隙間になって私に操られるなんて、可笑しくて可笑しくてたまらないわ。とっても甘美だったわよ。最高よ。この三年間。親子で私のことを愉しませてくれるなんて、なんて親切で優しいのかしら。」
  ヴィヴィオの中で、何かが弾け飛んだ。
  予備動作なしに全身に魔力を循環させ、身体能力を向上させる。踏み込み、間合いを詰める。ヴァナヘイムフォルム、第三形態のままのザイフリートを振りかぶり、ザイフリート自体に魔力を付与させ、全力でメアリに叩きつける。インパクトの瞬間に付与した魔力を解放し、瞬間的な威力を上昇させるための攻撃魔法、フラッシュインパクト。
  その攻撃はしかし、メアリの傍らに控えていたアリカによって遮られる。シグルズとザイフリートがぶつかり合い、拡散した魔力が火花となって飛び散る。
 「……あら、どうしちゃったのかしら、ヴィヴィオちゃん?」
 「あなたの、あなたのせいで!」
  ヴィヴィオの感情を支配するのは、怒り。
  未だかつて感じたことのないほどの怒りが、ヴィヴィオの全身の血液を沸騰させる。切り裂かれた脇腹の痛みも、出血による眩暈も感じなくなる。心を埋めつくさんばかりの怒りの感情が、ヴィヴィオの身体を突き動かす。
 「…………いいわ。いいわよ、ヴィヴィオちゃん。怒りと恨みと憎しみが綯い交ぜになったその表情。ゾクゾクするわ」
 「ッ!」
  ザイフリートに力を込め、アリカから距離を取るヴィヴィオ。
  数十メートル離れたところで、大口径カートリッジを二発ロード。砲身をメアリの頭に向け、照準を合わせる。ザイフリートを腰だめに構え、右手で本体を持ち、左腕はマガジンを掴み、グリップの代用とする。イメージするのは狙撃砲。大火力の砲撃で、対象物だけをピンポイントで確実に破壊する。
 『Divine Buster Extension』
 「ディバインバスター!!」
  通常よりも細い砲撃。実際には、対象物のみを確実に破壊するために、高い魔力密度を持つ。魔力光は虹色。この距離ならば、ヴィヴィオなら確実にアリカを避けてメアリの頭だけを打ち抜くことができる。メアリに迫る、虹色の狙撃砲は、
  しかし、アリカによって遮られる。遠距離からの攻撃は、きっと全部アリカによって受け止められてしまう。そう考えたヴィヴィオはザイフリートを第二形態バルムングフォルムに戻し、再びメアリに迫るために、
 『Schallumzug』
  高速機動魔法で数十メートルの距離を一秒足らずで数メートルまで詰める。そのまま間を置かずに、メアリに切りかかるのと同時に、二十を超える魔力弾を生成する。
 「はあああ!」
  メアリに切りかかるヴィヴィオ。その攻撃はアリカに阻まれるだろう。だからこその二十を超える魔力弾。ヴィヴィオの攻撃の後に魔力弾を起動させれば、ヴィヴィオを食い止めるためにアリカを使用した後に隙ができ、全方位から襲いくる魔力弾を防ぐことは不可能。
  そう、ヴィヴィオは考えた。
  しかし、アリカは、ヴィヴィオの斬撃を止めようとはしなかった。
  代わりに、メアリを守るように、メアリに照準を合わせた魔力弾を身体で防ぐような位置に、魔力防壁も張らずに立っていた。このままでは、メアリにも数発の魔力弾が直撃するだろうが、それと同時に十数発の魔力弾がアリカに直撃する。
 「!?」
  咄嗟に、魔力弾の軌道を逸らすヴィヴィオ。魔力弾は明後日の方向に飛んで行き、コントロールを失ってそのまま何処かに飛んで行く。
  その空白を、動揺を見せた隙に、アリカがヴィヴィオの眼前に迫る。迅さ重視のグングニルフォルムからの迅い突きがヴィヴィオを襲う。ザイフリートで防ごうにも、迅くて正確な一撃を急所に当たるのを逸らすのが精一杯で。鋭い一撃が、ヴィヴィオの左肩を貫いた。
 「――――――」
  痛みで叫びたくなるのを、ヴィヴィオは歯を食い縛って耐える。肉を切り裂かれ、骨を砕かれる苦痛が容赦なくヴィヴィオを襲う。途端に、怒りに支配されることで忘れていた脇腹の傷の痛みを思い出す。叫び声をあげ、意識を手放してしまいそうな痛みにヴィヴィオは耐え――メアリを、睨みつける。
 「ふふふ。ヴィヴィオちゃん、いい顔になったわ。誰のためでもなく、ただ自分の憎しみと怒りのために戦う。それでこそ、生体兵器としての、聖王ヴィヴィオよ」
 「違う! 私は、生体兵器なんかじゃない!」
  叫ぶ。軋む身体の痛みを無視して、心の限りに、感情を吐露させる。
 「私は、高町ヴィヴィオ! なのはママの娘で、アリカちゃんの親友。私が戦うのは生体兵器だからじゃない。なのはママみたいな強くて優しい魔導師になるために、そしてアリカちゃんを助けるために、私は戦うんだ!」
 「嘘ね」
 「!?」
 「アリカちゃんを助けるため? ふふ、笑っちゃうわ。ねぇ、聖王ヴィヴィオちゃん」
  言い、メアリは嘲るようにヴィヴィオを嗤う。
 「……どういう、意味ですか?」
 「言葉のままよ。ヴィヴィオちゃん。あなたは、高町なのはみたいな魔導師になりたいのよね。強くて、優しい。そんな魔導師に」
 「そうです。私は、なのはママみたいに」
 「だったら、今こうやって戦っているのは、憧れのなのはママみたいになるため?」
 「えっ」
  メアリの言葉に、ヴィヴィオは動揺する。
 「わ、私は、アリカちゃんを助けるために……」 
 「助ける? アリカちゃんを? そんな、怖い顔して?」
 「ッ!?」
  息を呑む。
  何のために戦うのか。
  初めは、憧れの人みたいになるためだった。次は、泣いている人達を助けるためだった。今までは、友達を、アリカちゃんを助けるために戦ってきた。なら、今は? 今、私は、何のために戦っている?
  そんなの、決まってる。
  アリカちゃんを、救うために
 「本当に?」
  メアリの嫌な言葉が、心に棘を刺す。
 「あなたは本当に、友達を助けるために戦ってきたの?」
 「どういう、こと?」
 「あなたは……高町なのはみたいになるために、友達を利用してきたんじゃないのかってこと。友達を助けるため、そんな高潔なことを言いながら、実際には憧れの人みたいになりたいって、そんな利己的なことのために、苦しんでいる友達を口実にして戦ってきたんじゃないの?」
 「そんな、こと」
  声が震える。足が竦む。そんなこと、違うって言いたいのに、どうして、声が出ないの?
 「もっと言えば、高町なのはみたいになりたい。そのためにあなたは、高町なのはの真似をして、高町なのはみたいな戦い方をしてきた。あなたは、高町なのはになりたいの? 高町なのはみたいな魔導師になりたいの? 古代聖王のコピーさんは、現代の魔導師の劣化コピーさんになりたいのかしら? それとも……それも全部口実で、ただ戦うために戦いたいの? 生体兵器、聖王ヴィヴィオちゃん?」
  自分を支えていた足場が、すべて壊れてしまったような気がした。
  自分が信じられない。それが違うのならば、メアリの言葉なんて一蹴してしまえばいいのに。どうして、声が出てこないの? どうして、否定できないの?
  私はどうして、魔法を覚えたの?
  私は一体、ナンノタメニタタカッテキタノ?
 「ふふ……」
  メアリが口角を持ちあげて嗤ったことに、ヴィヴィオは気付かない。
 「これだから、成長過程の子供は楽なのよ。敵の言葉なんて、端から聞かなければいいのに、なまじ強いから、頭が良いから、考えてしまうから、ちょっと催眠能力を上乗せした私の言葉に簡単に引っかかっちゃう」
  残酷な呟きに、ヴィヴィオは気付けない。
  呆然とするヴィヴィオに向かって、魔力ではない術式が迫る。超能力、強制催眠能力。魔法技術の存在しない世界では比較的メジャーな能力である超能力。魔力ではなく、通常の人間では使用していない脳の一部分に封印された力であり、精神を媒介として発動する。
  その力が、心を大きく揺さぶられたヴィヴィオに迫り、ヴィヴィオが気付かない内に、心を掌握されてしまう。
  魔法ではない。超能力の魔の手が、ヴィヴィオに迫る。
 《あなたは、何のために戦うの?》
  頭の中に、自分のものではない声が響く。
 (私は、私は……)
  その先の言葉が、出てこない。
 《戦うために戦う。そうでしょ? 生体兵器・聖王ヴィヴィオちゃん?》
 (違う、私は……)
 《何が違うの? どう、違うの? あなたは絶対に、純粋にアリカちゃんを助けるためだけに、戦ってきたって言うの?》
 (私、は……)
 《あなたがただ戦うために、憧れのなのはママみたいになるために、アリカちゃんを助ける、ということを口実に戦ってきた。アリカちゃんを、あなたはそのために利用した。違う?》
 (ちが……)
 《違わないわよ。ヴィヴィオちゃん。ほら、思いだしてごらんなさいな。あなたは、一体何者なのかしら?》
 (……………………)
  頭の中に、ガンガンと、声が響く。
  その声に、意識までもが侵食される。抵抗しようとしても、振り払おうとしても、それはかなわない。ヴィヴィオの心の柔らかいところを、弱いところを重点的に攻めてくる。段々と、段々と、意識が薄れていく。この感覚は……まるで、心を乗っ取られる感じ。
  頭の中に響いていた声が、やがて自分の意思であるかのように感じる。自分がそう思って、それが当然であるかのように思えてくる。今まで心の中にあったものが、新しいものに押し出され、変わっていくのを感じながら、ヴィヴィオは、それに抵抗できなかった。抵抗できるだけの意志の力を、自分を、すでに失っていた。
 「ヴィヴィオ!」
  不意に聞こえた強い声に、ヴィヴィオの意識が引き戻される。心をほとんど支配していた声が追い出され、自分の意志を取り戻す。そのことに安堵し、自分の心がもう少しでなくなっていたということに、全身が戦慄した。
  声の主が、ヴィヴィオに近づく。
  ヴィヴィオは彼女のことを、エリーゼだと認識した。しかし、その身に纏う騎士甲冑は所々が裂け、ボロボロで、全身いたる所から血を流していた。
 「エリーゼ、さん?」
 「ヴィヴィオ、その怪我はどうしたのですか!?」
  エリーゼの姿を見て、安心したのかどうかヴィヴィオ自身にも分からないが、全身から力が抜け――エリーゼは、ヴィヴィオの身体を優しく抱きとめた。
 「あ……」
 「ヴィヴィオ、しっかりしなさい!」
 「エリーゼさん、その怪我……」
 「私のはかすり傷です。放っておいても死んだりはしません。そんなことよりも、あなたの怪我の方が深刻です。ああ、もう、こんなになって……!」
  エリーゼは、抱きとめたままでヴィヴィオの傷を確認する。エリーゼの言うとおり、ヴィヴィオの傷からの出血は、そろそろ放っておくと命に関わるレベルまで進行していた。
 『verheilen Sie』
  ヴィヴィオに対し、エリーゼは簡単な治癒魔法を施す。応急処置程度にしかならないが、これ以上の出血を抑えられるだけ、かなり良い。
 「エリーゼさん、どうやってここに……」
 「何を言っていますの? この結界を破壊したのは、私とあなたですわよ。一度魔導式を解析してしまえば、私一人でも結界破壊の術式を編むことはできますわ。……もっとも、聖王陛下の魔法ですから、さすがに時間がかかりましたけど」
  それは、ヴィヴィオとエリーゼが決闘をしたときのこと。この結界に閉じ込められたのは、エリーゼとヴィヴィオだった。
 「他の、騎士さん達は……」
 「シスターシャッハも、他の騎士達も、怪我はしていますがみんな生きています。私だけの力では完全に結界を破壊することができなくて、私だけしか入れませんでしたが、シスターシャッハ達に術式を教えてきたので、すぐにでも応援がかけつけますわ」
  ヴィヴィオに治癒魔法をかけながら、エリーゼは話す。
 「ところで……」
  治癒魔法を継続させながら、頭だけを動かし、
 「あなたが……ヴィヴィオとアリカを苦しめる、張本人ですわね?」
  強い力を持った瞳で、エリーゼはメアリを睨みつける。
  そのエリーゼを見て……メアリはまた、嗤った。
 「……何が可笑しいのです?」
 「可笑しいわよ。フィアットお人好し親子。生体兵器・聖王ヴィヴィオ。それに加えて、エリーゼ・ダイムラーまで乱入してくるんですもの。もう、今日は最高の日だわ」
 「……どういうことですか」
  自然と、エリーゼの声に怒気が含まれる。
 「ああ、そうよね。あなたは、知らないわよね。フィアット親子のことも、ヴィヴィオちゃんのことも、私のことも。いいわ。説明してあげるから」
  そうして、メアリは、エリーゼに説明を始めた。フィアット親子のこと。三年前のブルースフィア事件、そして聖王信仰事件の真実。話している間中、メアリは心底愉快そうに嗤っていて、エリーゼはそれを静かに聞いていた。
 「……とまぁ、これが真実なのよ。信仰も何も関係なんてないのよ。ただ、おバカさん達が、私の掌の上で滑稽な踊りを続けていただけ。本当、可笑しくて嗤っちゃうでしょ?」
 「……そうですか」
  エリーゼは、静かにそう呟き、抱きかかえていたヴィヴィオを下ろした。
 「ヴィヴィオ、とりあえず、大丈夫ですか?」
 「はい。……大丈夫、です」
 「…………」
  エリーゼはヴィヴィオの瞳をじっと見つめ……おもむろに手を伸ばし、そして、ヴィヴィオにデコピンをした。
 「いたっ」
  思わず額を抑え、涙目でエリーゼを見つめる。
 「どこか大丈夫なのですが。何を言われたのか知りませんが、動揺しまくりですわよ。怪我も酷いのですし、そんなので、アリカを助けることができるとでも?」
 「う……」
  エリーゼの言葉に、ヴィヴィオは言葉を詰まらせる。
 「ここは、お姉様に任せておきなさい」
  言い、エリーゼはメアリに対峙する。力強くファーフニルを振り下ろす。ベルカ式魔法陣が一瞬でエリーゼの足もとに展開する。その色は橙色。
 「私は、あなたを許すことができません」
  メアリを睨みつけるエリーゼと、ニタニタと気持ち悪い笑みをエリーゼに浮かべるメアリ。
 「へぇ。どう、許すことができないの?」
 「こういう、風にです!」
  一瞬で、エリーゼはメアリとの間合いを詰める。全身の動きを連動させ、遠心力の乗った重い一撃をメアリに振り下ろす……が、その一撃は、未だ虚ろな瞳のアリカによって阻まれる。
 「アリカ! あなたも、目を覚ましなさい!」
  十字槍と槍による鍔迫り合いを続けたまま、アリカに向かって叫ぶエリーゼ。
  しかし、その声はアリカには届かない。
 「エリーゼ・ダイムラー。古代聖王家を信仰し、継承する、ダイムラー家の末裔」
 「それが、どうしたのです?」
 「アリカちゃんも、ヴィヴィオちゃんも可笑しいけど、あなたも十分可笑しいのよ?」
 「友を愚弄することは、私が許しません!」
  腕に魔力を上乗せして、アリカを弾き飛ばし、一旦間合いを取る。
  カートリッジを一発ロードし、次の攻撃を実行するために、構え、
 「だって、本物の聖王陛下がすぐ傍にいるのに、全然気付かないんですもの」
  メアリの言葉に、動きを止めた。
 「……何が言いたいのです」
 「私は、ただ真実を知らないかわいそうなあなたに、真実を教えてあげたいだけなのよ。そうでしょ? 生体兵器・聖王・高町ヴィヴィオちゃん?」
  エリーゼが、その動きを完全に止める。いつも冷静なその表情からは、明らかな動揺が見てとれた。
 「やっぱり知らなかったのね。なら、教えてあげるわ。三年前に起こったJS事件の時に、大犯罪者J・スカリエッティに生み出され、生体兵器として改修された古代ベルカ王朝の聖王陛下のクローン体。それが、高町ヴィヴィオちゃんなのよ」
 「な……」
  動揺し、反射的にヴィヴィオを見るエリーゼ。
  メアリの言葉を、今は否定できないヴィヴィオ。
  無言で見つめ返すしかできないヴィヴィオが、全てを物語っていた。
 「そんな……」
  否定がないことを肯定と受け取るしかない。エリーゼは目に見えて狼狽し、手に持つファールニルが小刻みに震えていた。なぜなら、聖王家を信仰し、聖王に仕えてきたことを誇りとし、聖王を受け継ぐことを生きる意味としてきた一族である。メアリの伝えたことは、エリーゼの価値観を、信じてきたものを破壊するには十分すぎた。
 「ね。あなたも滑稽でしょ。すぐ傍に憧れの聖王陛下がいるのに、そのことに気付かないなんて。ねぇ、聖騎士、エリーゼちゃん?」
  メアリの嘲るような嗤いに、震えるエリーゼは、
 「……………………」
  しかし、
 「…………だから、どうしたのですか?」
  少しだけ震えた、しかし凛とした声で、言った。
 「私はヴィヴィオを信じています。友を信じています、それで充分!」
  想いをこめて、叫ぶ。
  そこにいたのは、エリーゼ・ダイムラーと言うただの少女ではなく、友を信じ、己を信じる、ただ一人の強い騎士だった。
 「例え兵器であろうと、聖王陛下であろうと、あなたは私の友! 高町ヴィヴィオであることに変わりはありません!」
  ヴィヴィオに向けて、エリーゼは叱責する。
 「私はあなたを友だと思っています。あなたも、アリカも、私の生涯の友に値する人物だと思っています。あなたはどうなのですか、高町ヴィヴィオ!」
 「あ……」
  エリーゼの想いが、ヴィヴィオの心に沁みこんでくる。停滞し、薄れていた意識が覚醒する。
  そうだ。そうだよ。
  エリーゼさんの言うとおりだよ。
  私が、生体兵器。聖王陛下。憧れの人になるために戦っている。
  だから、どうした。
  心にわだかまりが残っていないと言えば嘘になる。
  だけど、今はそんなことはどうでもいい。
  友と認めてくれた人のために。友だと思う子のために。
  私は戦う。エリーゼさんと一緒に、アリカちゃんを助ける、絶対に!
  それだけで、今は十分なんだ。
  ヴィヴィオの心に、再び火がついた。その命の炎は、確かに生体兵器として生み出されたのかもしれない。だが、今のヴィヴィオの命は、間違いなくヴィヴィオのものだ。心に灯った炎は、意志は、想いは、間違いなく、ヴィヴィオ自身のものだ。それを今、ようやく思い出した。
 「…………ありがとうございます。エリーゼさん。私、目が覚めました」
 「……まったく。世話が焼けるのですから」
  軽口を叩き合う。戦闘中だからこそ、自分達を保ち、余裕を維持するために軽口を叩くのである。それだけの考える余裕をまだ持っているということなのだから。
  再びザイフリートを構え、自分の身体のコンディションを確認する。
  傷は痛む。出血を抑えていられるのも、おそらくあと数分が限界。正直、手足の先が痺れる。視界は黒く狭まってきたし、頭がフラフラする。だからきっと、今の私にできることは、あの人にたったの一撃を加えることだけ。
 「……最後の一撃に、協力してもらえませんか、エリーゼさん?」
 「何を今更。ここまで来たのです。最後まで付き合いますわ。その代わり、全てが終わったら、あなたが秘密にしていたこと、残らず説明していただきますわよ?」
  友と呼んでくれる人に、微笑むことで礼を、同意を伝える。
  それだけで、十分。
 「ザイフリートも、手伝ってくれる?」
 『無論でございます。私は、御身を助け、護るために在るのです。……なんなりと、御命令を。お嬢様』
 「……ありがとう、ザイフリート」
  最高のパートナーだ。心からそう思う。
 「いきますわよ、ファーフニル。準備はいいですわね?」
 『Jawohl』
  答える相棒に、エリーゼは微笑む。
  それから、二人揃って、それぞれの相棒を構える。
 「……フン。つまらないわ。最高の一日だと思ってたのに、最後に最低の一日になっちゃったじゃないの」
  メアリが、心底憎たらしそうにそう言う。
 「絶望のどん底から立ち直るなんて、そんな希望に充ち溢れた様子なんて、最低の情景よ」
  醜悪に歪むメアリの顔に、ヴィヴィオとエリーゼは嫌悪し、
  それを合図に、エリーゼが前に飛び出した。狙うは諸悪の根源、メアリただ一人のみ。
  メアリとエリーゼの間に操られたアリカが飛び出し、エリーゼが進むことを妨害するが、そのことはすでに予測済みだ。
  両腕で持った十字槍を振りかぶり、エリーゼから見て左斜め上から袈裟切りに切りつける。ただし、あえて遠心力を上乗せせず、刃の部分ではなく、通常よりも石突に近い部分を持って、柄の部分を当てるように振るう。それをアリカは、自分の真横にシグルズを立てることで防ぐ。武器と武器がぶつかり合い、双方の動きが止まる。刃と刃ではなく、柄と柄で押し合う形になる。
 「これで……」
  その状態で、エリーゼはファーフニルを素早く引く。十字槍の横の刃がシグルズの柄に引っ掛かり、アリカの持つシグルズに引く力が伝わる。
 「どうですか!」
  その手ごたえを確認し、エリーゼは一気にファーフニルを引き抜く。予想外の方向に加えられたことで、アリカが体勢を崩す。独特の十字型の刃を利用した、十字槍ならではの使い方。
  エリーゼの目的はただひとつ。メアリに攻撃することではなく、メアリのことを身を呈して守らされているアリカの動きを封じること。体勢を崩してしまったアリカは、どんな命令が雇用とも咄嗟に防御行動に移ることができない。
 「ヴィヴィオ!」
 『Schallumzug』
  フェイトの得意な空戦高速機動魔法、ソニックムーブのヴィヴィオ改定版。通常の人間には目視できないほどの速度でメアリとの距離を削る。突然目の前に現れたヴィヴィオに、メアリは反応しきれない。
 「くっ!」
 「ああああああ!!!」
  ヴィヴィオに許された最後の一撃。残された魔力、体力、精神力のありったけを込めて、ヴィヴィオはザイフリートを横一線に薙ぎ払った。
 「っ……ぎゃああああぁぁぁ!?」
  その一撃をメアリはかろうじて避けようとしたが、完全には叶わなかった。ヴィヴィオから距離を取ることを代償に、目の下に、横一文字の太刀傷を与えられる。傷を押さえ、痛みに苦悶するメアリ。
 「…………あっ」
  残されたありったけを込めた身体から、力が抜けた。体勢が崩れ、飛行魔法も一時的に解除される。空中に浮かぶ術を失い、重力による落下運動を始めようとするヴィヴィオ。
 「ヴィヴィオ!」
  その身体を、エリーゼに抱きとめられる。
 「エリーゼ、さん……」
 「大丈夫ですか、ヴィヴィオ?」
 「えへへ……ちょっと、疲れました……」
 「まったく……」
  こんなときでも、軽口を叩いてみる。私は大丈夫だ、そんな意味を込めて。
  その時、突然、空間が揺れ始めた。
 「これは……」
 「ようやく、援軍の到着ですわね」
  この感覚は、ヴィヴィオも知っている。なぜなら、この結界を最初に破壊したのは、他でもない、ヴィヴィオとエリーゼだったのだから。
  まるで果てしなく続く空みたいな空間に光のようなヒビが入ったかと思うと、数秒後、周囲を包み込んでいた空色の結界が、まるでガラスのような音を立てて砕け散った。
  一瞬だけ空間がぐにゃりと歪む感覚に襲われ、気がつけば、ヴィヴィオもエリーゼも元いた広場に、しっかりと足を着いていた。
 「ヴィヴィオさん、エリーゼさん!」
  シャッハの呼ぶ声。その声によって、二人は結界が破壊されたことを確信する。
 「あ……」
 「シスターシャッハ」
  ヴィヴィオとエリーゼの前に現れたのは、シスターシャッハ。彼女も全身傷だらけだが、かなり元気そうだ。シスターシャッハ以外にも、ヴィヴィオのいる広場は数十人規模の騎士隊によって包囲されていた。事件の深刻さをあらかじめ察知していたヴィヴィオの進言により前日から準備されていた、教会騎士の応援部隊である。
 「ヴィヴィオさん、エリーゼさん……無事……でも、ありませんね」
  ヴィヴィオの姿を見て、シャッハは自分の発言を一部訂正する。
 「医療担当の騎士は待機を」
  ヴィヴィオの安否を気遣いつつも、しかし、シャッハはヴィヴィオやエリーゼとは比べ物にならないほどの経験を積んだ本物の騎士である。危険がまだ去っていないため、全ての可能性を考慮し、重傷を負ったヴィヴィオを治療するための医療系騎士を待機させるに留める。それを確認すると、一歩前に踏み出し、この事件の真犯人、メアリを鋭く睨みつけた。
 「あなたが、この事件の真犯人であり、私の友を、傷つけた人間ですね?」
  その声には、いつも温和でちょっと苛烈なシャッハからは想像し難い、凄みの利いた声だった。
  三下程度なら声を聞くだけで竦みあがってしまいそうな言葉に、メアリはしかし、横一文字に走った傷を押さえていた手をどけて、シャッハに顔を向け――嗤った。
 「ふふふ、そうやって睨まれるのは今日三回目よ。初めまして……で、いいのかしら? 修道騎士、シスターシャッハ?」
  傷を負っているというのに小馬鹿にしたような態度を崩さずメアリはそう言い、辺りを見渡した。
  広場にいるのは、負傷し、満身創痍でありながら戦意を喪失させていないヴィヴィオと、そのヴィヴィオを抱きかかえたまま片方の手でザイフリートを握り、メアリを睨みつけるエリーゼ。無防備なようでありながら、全身から凄まじい闘気を発するシャッハ。そして、それぞれの得物を構え、広場を包囲する教会騎士達。
  彼らを一瞥し、メアリは嗤う。
 「さすがにこれだけの人数を相手にするのは、私でも無理ね」
 「でしょうね。これだけの騎士を相手にするなど、不可能です」
  教会騎士達の本当の強さを知っているからこそ、シャッハは断言する。
 「大人しく投降すれば、あなたには弁護の機会が与えられます」
 「…………」
  投降を呼びかけられ、メアリは数秒間だけ動きを止め、
 「ふふふふふ…………あーはっはっはっは!」
  突然、嗤い出した。
 「な、何が可笑しいのですか?!」
 「可笑しいわよ。可笑しくて可笑しくて堪らないわ。もう、今日は本当に素敵な一日ね。ヴィヴィオちゃんとエリーゼちゃんを連れていくことは叶わなかったけど、それ以上に素敵なものが見れたから、良しとしましょう」
  メアリは一際盛大に嗤い……そして、また嗤う。しかし、その笑みは今までのような人を嘲るような笑みではなく、怨みと怒りに歪んだ、最低に歪んだ笑みだった。
 「ねぇ、ヴィヴィオちゃん、エリーゼちゃん。知ってる? 人間が持つ様々な感情の中で、この世で最も強く、この世で最も甘美なもの」
 「……?」
  メアリの問いに、ヴィヴィオもエリーゼも答えられない。
 「それはね、怨みよ。誰かに怨みを持って、最高の演出で、その人に復讐する。その瞬間の、その人が壊れていく様を見る快感は、何者にもかえがたいわ。例えば、私の顔を傷つけたアリカちゃんのお母さんを最高のシチュエーションで殺した時とか、その娘のアリカちゃんを、こういう風にしたときとか、ね。子供達をどん底に叩き落とすのもいいけれど、こういうのも、堪らない」
  残念なのは、私が誰かに怨みを持つ機会があまりないことね、とメアリは続けた。
 「ヴィヴィオちゃんに、エリーゼちゃん。あなたたちは、アリカちゃんのお母さんに続いて、私の美しい顔を傷つけた。この私の美しい顔を、ね。覚悟しておきなさい…………あなたたちの心、私が絶対に壊してあげるから」
  メアリの顔が、醜悪に歪む。人が持てるすべての負の感情を凝縮したような笑顔に、ヴィヴィオ達だけでなく、この場にいる騎士達全員が背筋に冷たいものを感じた。どうすれば、ここまで人の顔は醜く歪むことができるのか。一体どれだけの外道を歩めば、これだけの笑顔ができるのか、皆目見当もつかなかった。
 「……ふふふ。大丈夫よ。壊れちゃった後でも、私がうんと可愛がってあげるから」
  舌なめずりをする蛇のような声に……一番初めに我を取り戻したのは、シャッハだった。
 「そんなことは、この私が許しません!」
  ヴィンデルシャフトを振りかぶり、メアリに迫ろうとする。しかし、メアリはその直前に、
 「……じゃあ、アリカちゃん。よろしくね」
  メアリがそう告げると同時に、辺りを眩い閃光が襲った。
 「!?」
  視覚だけでなく、魔力も麻痺させる効果が付加された閃光魔法だ。それでなくても、人は外界の情報の七割近くを視覚から得るのだ。瞼を焼くほどの強烈な魔力光で視界を封じられてしまえば、脳が麻痺して動けなくなってしまう。シスターシャッハほどの手練であれば、気配が近づけば対処できるのだが、今回の相手の目的は逃走である。視界が潰された状態で逃げる相手の気配のみを追尾して捕縛することは、不可能だった。
  やがて、光が収まり、騎士達の視界も回復していく。
  その場に残されたのは、もしもの追撃に備え周囲を警戒する教会騎士達と、シスターシャッハ。それに、呆然とするエリーゼと、エリーゼの腕の中にいるヴィヴィオ。
  メアリと操られたままのアリカの姿は、どこにもない。
 「逃げられてしまいましたの……? ヴィヴィオ、あなたはどう思います」
  エリーゼは腕の中にいるヴィヴィオに意見を求めようとして……気付く。
  ヴィヴィオが、自分の腕の中でぐったりとしていることに。よく見れば、自分の手も、ジャケットも、血で赤く濡れている。自分の出したものではない。それは、明らかにヴィヴィオの血で――。
 「い、医療班、早く来て下さい! 治癒系の魔法が得意な騎士でも構いません!」
  声のままに、エリーゼは叫んでいた。
 「早く!」
  エリーゼの叫び声だけが、広場に響き渡った。