こういうときだけは、自分が人間でなくて良かったと、シグナムは思う。
  何故なら、普通の人間だと、あれだけの傷が完治するまでに長い時間を必要とするからだ。
  シグナムや、はやてを護る守護騎士達は、普通の人間ではない。その正体は、十三年前の暴走を最後にこの次元世界から永遠に失われた第一級危険指定ロストロギア『闇の書』に組み込まれた防衛プログラムの一部であり、つまりは魔法の力によって創り出された生命体である。
  闇の書。古代ベルカの時代……もしかしたらもっと前から存在している、はるか昔の遺物。本来は優れた魔法技術を後世に残すために造られた健全な資料本だったハズが、長い時間を過ごすたびに悪意を持った者に改悪され、やがて、本来の名前を忘れられ、無限の転生と破滅を招く、最凶最悪のロストロギアになってしまった。失われた本来の名は、夜天の魔導書。そして、その闇の書の選んだ主という名の依代を守護するのが、シグナム達ヴォルケンリッターの役割であり、生まれた意味。
  それは、無限に続く闇の書と言う名の魂の牢獄に等しかった。
  闇の書に新たな名前を与え、無限に続く苦しみからヴォルケンリッターを救ったのは、闇の書の最後の主である、現主の八神はやて。幾年にも及ぶ魂の牢獄を八神はやてが破壊するには幾多のドラマがあり、今になっても様々なものを残しているが、それはもう十三年も前の話だ。
  故に、それは過去に過ぎ去った出来事であり、それに囚われて生きていくこともない。
  しかし、当事者達にとっては、絶対に忘れることはできない。
  闇の書事件。それは一言では語り尽くすことのできない、悲しい物語。
  そうは言っても、今では闇の書――正式名称・夜天の魔導書、そして、新しい名前は、祝福の風――彼女が残したものは、何も悲しみばかりではない。彼女から生み出されたシグナム達ヴォルケンリッターは元々身体の構造は普通の人間と同じように形作られている。普通の人間と違う点といえば、年を取ることがないという点と、主の魔力供給による緊急リカバリーシステムを搭載している点くらいのものである。それも、闇の書が……祝福の風が永遠に失われた今では、その緊急リカバリーシステムの能力も衰えていっており、日に日に普通の人間に近づいている。
  ほんの二日前の大怪我も緊急リカバリーシステムを活用することでこんなにも早く回復したのだが、以前のように完治とはいかなかった。システムに加えてシャマルの治癒魔法と月村家の秘密の技術によって回復を補助して、ようやく完全な状態に近付けることができた。不完全となってしまったシステムが完全に使えなくなるのにあとどれだけかかるのか。それは主であり、現在のシステムの管理人である八神はやてにも分からないが、もしかすると、あと数年で……もしかすると、すぐにでも使えなくなってしまうのかもしれない。
  それはそれで構わないと、シグナムを含めた守護騎士達は考えている。
  永遠の刻を生き、死ぬことも適わなかった魂の牢獄。それから抜け出し、信頼する主や家族と本当の意味で同じ命を生き、同じように死を迎える。そのことを、守護騎士達はひょっとしたら、ずっとずっと願っていたのかもしれない。
  だから、システムが失われてしまうのなら、それでいい。
  今は、大切な家族と共に、家族の中で唯一の人間であり、主であり、一家の中心であるはやてと同じ刻を生きることが、大切なのだから。
  そんなことを考えながら、シグナムは目的地に向かって歩を進める。
  主であるはやてに、シグナムにしては珍しいお願いをして貰った一週間の時間で、シグナムは一人の人物に会い、教えを請う約束をした。彼はこの魔法の存在しない世界において魔法なしに魔導師と互角以上に戦える人物であり、今は家族と一緒にドイツに住んでいる。彼は忙しい人であるし、教えを請うのだから、自分から出向くのが礼儀というものである。
  故に、シグナムは今――ドイツにいた。




  長距離転移は、シグナムにとってはお手の物である。かつては、複数の次元世界を股にかけてリンカーコアを奪っていたのだ。まだ本調子でないとはいえ、日本の海鳴市からドイツに向かうくらいなら、それほど負担にならなかった。
  だから問題なのはむしろ、ドイツに着いてからだった。
  住所が分かっていて、簡単な地図があるからといって、異邦の地でその目的地に辿り着くのは難しい。まして、目的地が有名な場所や観光地ではなく、個人の邸宅なのだ。なまじ魔法などというものが使えるからこそ、使えないときには弱い。普段から自分の能力以外の力に頼っていると、いざという時に困るものである。
  早い話が、シグナムは道に迷っていた。
 「む……」
  近くまでは来ているハズなのだ。ただ、目的の人物の住む邸宅がある住宅街というものが予想外に入り組んでおり、今自分がどこにいるのか、分からなくなってしまった。簡単な地図程度では番地や住宅街全体の構造までは書かれていないので、シグナムは完全に迷子だった。
 「困ったな……」
  かの人に連絡を取ろうにも、現在ではこちらの世界に住んでいないシグナムは携帯電話というものを持たず、魔法が使えないので思念通話も通用しない。近くにいる人に尋ねようにも、住宅街なのになぜだか人通りがあまりなく、尋ねる人がいなかった。
  これはシグナムは知らないことなのだが、今の時期のドイツは日本で言うお盆であり、長期休暇、いわゆるバカンスの時期であるので、この住宅街に住む住民はほとんどが別荘や避暑地に旅行に行っており、そうでない住民も、目的のない外出などせずに家でゆったりと過ごしている。外国の長期休暇は、日本文化に慣れたシグナムの感覚とは少し違うものだ、よって、この時期の住宅街は、どうしても人通りが少ないのだ。
  これから、どうしようか。シグナムは内心焦っていた。
  まさかいつまでも、住宅街の同じようなところをグルグルと回っているわけにはいかない。
  これはもう、恥を忍んで日本にいる誰かにナビゲートして貰った方がいいのだろうか。
  シグナムがそう思い始めた、正にそのときだった。
 「あの……どうかしたんですか?」
  背後から聞こえたその声に、反射的にシグナムは身構えた。それは、理屈でも感情でもない、本能の行動。長い経験に裏打ちされた本物の騎士の動き。ステップを踏んでほぼ一瞬で距離を開け、例え相手が何をしてこようともすぐに対処できるよう、精神と身体を最適な状態に保つ。
  しかし、自分に声をかけた人物の姿を見て、シグナムはひどく面食らった。
 「……子供?」
  シグナムの後ろに立っていたのは、シグナムから見ておそらく八歳前後の、小さな女の子。青紫の髪を肩まで伸ばし、白いカチューシャでまとめている。瞳の色は澄んだ緑色で、まだ小さな女の子だというのに、非常に強い何かを感じさせられた。全体的に整った顔立ちで、西洋人と言うよりも日本人の容姿に近い……と言うか、日本人そのものだった。それに似合うように、少女は夏らしい薄手の上着にフリフリのミニスカートを履いていた。
  過敏な反応をして驚かせてしまったのか、その少女は表情を固定されたまま固まっていた。
  少女からは、敵意も害悪も感じない。何かが引っ掛かるが、それでも普通の年相応の少女の気配しか感じない。少なくとも、警戒して臨戦体勢に映るような相手ではない。
  どうして、こんな子供に反射的に動いてしまったのか。シグナムは自分で疑問に思い、すぐにその理由に思い当たった……が。シグナムは自分で、その理由の有り得なさを理解していた。
  まさか、声をかけられるまで、自分がこの子の気配に気付かなかった……なんて。
  こんな小さな女の子が自分の気配を消せるわけがない。おそらく、道に迷って焦っていたから小さな気配に気付けなかったのだろう。シグナムは自分の中でそう結論付け、いつまでもそのままでいるわけにもいかないので、その少女に話しかけた。
 「あー、お嬢ちゃん。私に、何か用があるのか?」
  しかし、シグナムはこういう小さな女の子と放した経験がほとんどなかったので、どうしても話がぎこちなくなってしまう。もしかしたら怖がらせてしまうかもしれない、内心ハラハラしながら、シグナムは少女の返答を待った。
 「あ、はい、あの、なにかこまっているみたいだったので、力になれたら、と思いまして」
  しかし、シグナムの心配を他所に、少女は至って落ち着いていた。それどころか、年相応に舌足らずなのに、言葉そのものは年の割にはかなりしっかりしているようだ。シグナムの取り越し苦労だったのか、それともこの少女が物怖じしない性格なのか。どちらだったのか、今のシグナムには答えが出せなかった。
 「ああ、実は、古い友人を訪ねてここまで来た。簡単な地図はあるのだが、迷ってしまってな」
  おそらく大丈夫だと判断し、普通に少女に話しかけた。これだけしっかりした少女なら、もしかしたら目的の場所のことも知っているかもしれない。そんな期待も込めて。
 「その地図、ちょっと見せてもらえませんか?」
  少女に言われ、シグナムは少女に持ってきていたメモ程度の地図を見せた。
  その地図をじっと見つめた後で、少女は微笑んだ。
 「ここなら、わたしのいえの近くですね。よかったら、近くまであんないしますよ?」
 「それは、願ってもない申し出だ。でも、いいのか?」
 「かまいませんよ。わたしも、おさんぽからおうちにかえるところですから」
  本当に、八歳前後とは思えない。ある意味不自然なくらいにしっかりしたその少女に……しかし、普段から小さな女の子とこうして話す機会のないシグナムは、最近の子供はこういうものなのだ、と感心して納得してしまった。ただでさえ、シグナムの周りには年不相応に大人っぽく、ある意味達観してしまったような子供ばかりだったから、そう思ってしまうのも仕方のないことではあるのだが。ここで気付くことができれば、あるいは後で驚くこともなかったのかもしれない。
 「では……お願いしても構わないか?」
 「いいですよ。じゃあ、行きましょうか」
  そう言い、その少女は目的地に向けて歩き出そうとしたところで、再びシグナムのことを見た。シグナムの方が背が高いので、少女がシグナムを見上げる形になる。
 「そういえば、お姉さんのお名前、なんていうんですか?」
 「私か。すまない、そういえば名乗ってなかったな。私は、シグナムという」
 「シグナムさん、ですね。わたしの名前は、雫っていいます。雫ってよんでくださいね」
 「分かった。……では、雫。よろしくお願いする」
 「はい。分かりました、シグナムさん」




  そうして、雫と名乗る少女に案内され、シグナムは目的地に向かった。
  シグナムはそれほど話す方でもなく、雫も道案内に集中してしまっているのか、二人の間にはあまり会話はなかった。こういう沈黙を、シグナムが不快であると感じないのが大きい。そのため、シグナムは自分の少し先を先導する雫のことを見ていたのだが。
 (一体何者なのだ、この子は……)
  観察すればするほど、雫の正体が分からなくなっていった。
  まず、自分の前を子供らしくとてとてと歩く雫は、重心が身体の中心からほとんどブレていないのだ。フェイトやエリオですら、始めて出会った頃は普段の移動でも重心はそれなりにブレていたし、そもそもシグナムと初めて出会ったその当時、フェイトとエリオはそれぞれ九歳と十歳だったのだ。八歳くらいの女の子でここまで重心がブレないのは、むしろ異常なのではないのか。
  また、それに合わせて、ちょっとした動きや動作にも無駄がほとんどない。何気ない動きひとつひとつが洗練され、隙が一切感じられない。おそらく、シグナムがいきなり後ろから襲いかかっても、ステップを踏むように軽々と対処できるだろう。重心がブレないことも合わせて、格闘技を習得しているから、とも考えられるが、ここまで安定している洗練された動きは、達人クラスの使い手でないとできないはずだ。こんな小さな女の子にそれだけの技量があるとは、さすがに考えられない。
  更に、これは自分でも信じられないのだが。
  雫はどうも、服の下に何か隠しているようなのだ。それもおもちゃなど可愛らしいものではなく、携帯できる大きさの、しかし殺傷能力を持った本格的な武器を。いくらなんでも、こんな子供が、そんなものを持ち歩くほど、この世界は物騒ではないはずだ。
  さきほど気配を一切感じなかった点といい、シグナムには、雫がどうしても普通の子供には思えなかった。
  ますます不信感を覚え、シグナムが雫を後ろからじっくりと見つめていると、不意に、雫が立ち止まって振り向いた。
 「はい。とうちゃくしましたよ、シグナムさん」
 「あ、ああ……」
  雫に言われ、シグナムはようやく我を取り戻す。
  雫の観察に夢中で、目的地の近くに到着していたことに気がつかなかった。
 「たぶん、シグナムさんのさがしている人のおうちも、この近くにあると思います」
  歩いた距離と時間から察するに、案外近くをウロウロしていたらしい。
 「ああ、ありがとう、雫。助かったよ」
 「いえ、どういたしまして」
  お礼を述べるシグナムに対し、年相応の笑顔を見せる雫。
  その無邪気な笑顔と、体裁きのギャップに、シグナムは少し戸惑う。
  そんなシグナムをよそに、雫は近くにあった家のインターホンを押し、中の人を呼んでいた。
 「ノエルさーん、雫ですー。開けてくださーい」
  おそらく、あそこが雫の家なのだろう。どうやらこの辺りは高級住宅街というものらしく、一件一件に大きな門があり、敷地を取り囲む塀が高い。塀の向こうには、屋敷と呼んでもいいような大きな家が見える。庭も広そうだ。きっと、雫はいいところのお嬢様なのだろう。子供っぽい呼びかけを聞きながら、シグナムは自分の目的の家を探すために踵を返そうとして、気付いた。
  今、雫は、ノエルさんと言わなかったか?
  ノエルと言う名前は、割と普通にあるのかもしれない。しかし、ノエルという名前にシグナムは覚えがあり、また、シグナムがこれから尋ねる人物に仕えている人が、ノエルという名前だった。
  こんなに近所に、ノエルという人が二人いる、ということがありえるのだろうか?
  いや、よく考えてみれば、雫の髪の色や全体的な顔の造りはかの人の妻である女性にそっくりだし、瞳の色や目元など、かの人の面影があるではないか。大体、無意識下での洗練された体捌きや、武器を隠し持っている点など、かの人にそっくりではないか。
  これはもしかして、もしかすると。
 《はい。雫お嬢様。今開けますから、少し待っててくださいね》
 「はーい」
  インターホンから聞こえた声に、素直に返事をする雫。それから数秒後、家の門が開かれた。雫は歩いて、門から中に入ろうとする。それを、シグナムが引きとめた。
 「待ってくれ、雫」
 「? どうしたんですか。シグナムさん?」
  小首を傾げる雫。
  その雫に、目的の人物と深い繋がりがありそうな雫に、シグナムは尋ねた。
 「雫。君のフルネームは、なんて言うんだ?」
 「フルネームですか? わたしは、月村雫って言います」
 「月村……だと?」
  雫の口からフルネームを聞かされ、シグナムは驚いた。
  月村。それは、シグナムが尋ねたかの人の妻の苗字であり、かの人は婿養子になったため、今では月村姓を名乗っているハズだ。このドイツにおいて、月村の苗字を持つ者が他にいるとは考えにくい。
  つまり、ここがシグナムの目的地である可能性が高い。
 「雫、どうしたんだ、そんなところに突っ立って」
  開け放たれた門の中から出てきて、雫の名前を呼ぶ男性の声。その声を聞いて、シグナムは確信する。
 「パパ!」
  雫はその男性の姿を見つけると、彼に向かって飛びついた。比喩表現でなく、本当に、子供とは思えない跳躍をして、その男性に抱きついたのだ。その男性も、高く跳び上がった雫をやすやすと抱きとめ、そのまま抱きかかえた。
 「恭也殿」
  その男性こそ、シグナムが会いに来た目的の人物。
 「……ああ、シグナム。久しぶりだな」
  シグナムに呼びかけられた男性は、雫を抱きかかえたまま、シグナムに微笑みかける。
  彼の名は月村恭也。
  時空管理局最強の砲撃魔導師である高町なのはの兄で、魔法なしで高位の魔導師を圧倒するほどの戦力を持った、魔法の存在しないこの世界において最強クラスの実力を有する、御神の剣士である。 




            ※




  数年ぶりの再会の後、シグナムは客室に案内された。客室は家の見た目通りに広く、革張りのソファーもとても座り心地が良かった。シグナムはそのソファーに座り、昔から月村一家に仕えているノエルの給仕した紅茶を口に運ぶ。シグナムは紅茶というものは普段から飲まないため詳しいことは分からないが、この紅茶がとても質の良い物だということは分かる。そこらにある市販品では、鼻孔をくすぐる香りがこれだけ高貴なものにはならないだろう。
  紅茶を飲むシグナムと、客室用の大きめのテーブルを挟んで反対側のソファーには、この家の家主である恭也と、その妻である月村忍が座っている。大きさ的に余裕のあるソファーに腰掛けているというのに二人の距離はかなり狭く、また恭也の膝の上に雫が座っている。これをこの一家はどう見ても無意識に、自然にやっていた。昔から中睦まじい夫婦ではあったが、娘が生まれて更に仲が良くなっている気がする。微笑ましい光景に、自然とシグナムの頬が緩む。
  仲の良いこの一家のことを観察していても飽きないかもしれないが、しかし、シグナムはここに茶飲み話をしに来たわけではない。
 「恭也殿。まずは、連絡していきなり押しかけてしまったことを許して欲しい」
 「ああ、気にするな。どちらにしろ、今年は休暇ギリギリまで仕事が忙しくて、バカンスの予約もできなかったからな。それに、忍も身重だし、日本のお盆に合わせて帰国する以外に予定はない。ずっと家でゆっくり過ごすつもりだったから、むしろやることができてありがたいくらいだ」
 「ほう。三人目の子供ができたのか。それはめでたいことだ」
 「ありがとう、シグナム」
  恭也に言われ、シグナムは忍に視線を向ける。まだ目立たないが、新しい家族ができる幸福に、シグナムも祝福の言葉を向ける。
  お礼を言って微笑む忍は、本当に幸せそうだった。
 「そういえば、二人目の子供はどうしているんだ?」
 「ああ、朧はまだ小さいからな。今頃、ノエルが相手してくれている」
  恭也は、自分の膝の上に座る雫の頭の上に手をやった。
 「それから、この子が長女の雫だ。シグナムと最後に会ったのは、雫が生まれる前……だったか?」
 「ええ。子供ができた、ということは知っていたが、実際に出会うのは初めてだ」
  子供が生まれたということも一応は聞いていたが、片やドイツで、片や次元世界である。双方ともに忙しかったため、ニアミスすることは幾度があったらしいが、こうして恭也と忍の子供の姿を面と向かって見るのは初めてだった。
 「懐かしいものだ。出会った頃はまだ学生だった恭也殿が、もう人の親になっているのか。気付けば私も主と出会って十三年。刻が経つのは早いものだ」
 「そうだな。きっと、この子達もあっという間に大人になって、巣立っていくんだ」
  静かに語りながら、恭也は雫の頭を丁寧に撫でる。撫でられている雫は満面の笑みで、恭也に撫でられてご満悦のようだ。
  穏やかな時間が、客室に流れる。
  シグナムは海鳴にいた頃、剣術家として恭也のことを懇意にしていた。人格もそうだが、なによりも魔法なしで魔導師を圧倒する実力に魅かれた。お互いに戦うことは好きだったため、都合が合えば時に純粋な剣術で、時にお互いの持ちえる技術総てを用いて決闘をしたこともあった。飛行魔法有りでなお、恭也の勝率の方がわずかに高いという事実に、シグナムは若干の悔しさと、大きな魂の震えを感じていた。
  技術と己の肉体だけで、人はここまで強くなれる。
  その事実に、シグナムの騎士としての魂が、反応したのだ。
 「まったく、恭也のバトルマニアっぷりにも困ったものね」
  どこか拗ねたように、忍が言う。
 「む。バトルマニアとは何だ。俺は、更なる高みを目指すためにだな」
 「それがバトルマニアだって言うのよ。シグナムと戦う時に、楽しそうにしちゃってさ」
 「でもママは、そんなパパのことが大好きなんだよねー」
  純粋な子供の言葉に、大人は往々にして敵わない。
  雫の一言で、目の前のおしどり夫婦は一瞬にして顔を赤くした。
  良いな。そう、シグナムは心の底から思う。
  彼らには、幸せで穏やかな人生を過ごして欲しいものだ。それが、普通でないが故にそれなりに辛い人生を送って来た二人の男女に対する、シグナムのささやかな願い。同じ想いを持つ友として、恭也の一家には幸せであって欲しいと願う。
  だが、いつまでもゆったりとくつろいでいるわけにはいかないのだ。
  するべきことがあって、シグナムはここに来たのだから。
 「恭也殿」
 「む」
  視線で合図を送る。恭也相手には、それで充分。
  恭也は雫の頭を撫でたまま、視線だけを強くして、シグナムに問いかける。
 「メールで詳細は知っているが、それでも、俺はシグナムの口から直接聞いておきたい。……なぜ、今になってわざわざ俺を訪ねて来た?」
  表情こそ先ほどと変わっていないが、雰囲気と、自分を見つめる瞳の強さが明らかに違う。強く、鋭い眼光に、身体を射抜かれるような錯覚すら覚える。試されている。言葉面ではなく、その言葉を創り出す心の中を、真意を、試されている。シグナムは知っている。このような恭也殿の前では取り繕いは無駄であり、そもそも取り繕う気など、さらさらない。
  だからシグナムは、包み隠さず、己の想う理由を、語る。
 「強く、なりたいからだ」
 「ほう」
 「先日、私は主の前で無様にも負けてしまった。結果として主は傷つくことはなかったが、それは肉体的な話であり、たまたま運が良かっただけにすぎない。一歩間違えれば、私は主を失っていた」
  運が良かっただけなのだ。
  もし、アンリエットが人の命を何とも思わない凶悪な次元犯罪者だったら。もし、シグナムが戦った方のキョウヤが残虐な男だったら。ぞっとする。
 「はっきり言って、私達が真正面からぶつかって敗北したのは、初めてなんだ。だから、今になってようやく気付いた。気付かされた。自分が、まだまだ未熟で、弱いことに」
  あるいは、実害がないからという理由で、無意識に目を逸らしていたのかもしれない。
  自己鍛錬を怠ったことはない。自身の実力を驕ったこともない。常に、前に進むようにしていた。ただ、自分が負ける可能性に考えいたりながらも、そこから先に進むことがなかったのだ。このメンバーなら、負けることがなかったから。
 「……成程」
  だが、現実として、シグナム達は敗北した。
  未知の力を使う彼らに、シグナム達は及ばなかったのだ。
 「だから、私はもう一度自分のことを見つめ直したいのだ。初心に帰って、私の実力を、戦う意味を、私は知りたい」
 「だから、俺のところに来たのか」
 「それもあるが、理由はもうひとつある」
 「……なんだ」
 「レヴァンティンのフォルムフィーア。オーバードライブを、完全なものにしておきたくてな。このフォルムを使いこなすためには、恭也殿の力が必要なのでな」
 「ふむ」
  シグナムの話を聞き終わり、恭也は少しだけ考えるような仕草をしてから
 「分かった。そういうことなら、引き受けよう」
  シグナムの頼みを引き受けた。
 「感謝する。恭也殿」
  引き受けてくれた礼に、シグナムは頭を下げる。
 「俺の教えは厳しいぞ?」
 「望むところだ」
  自分は、今以上に強くなるためにここに来たのだ。
  厳しいぐらいでないと、話にならない。
 「期限は三日だったな。時間がもったいない。さっそく始めようか」
  言い、恭也は膝の上に座っていた雫を抱きかかえ、立ち上がった。
  シグナムも恭也と共に立ち上がった。
  そしてシグナムは先に歩いて行く恭也に従い、この家にある訓練場に向かう。
 「……雫。お前も、協力してくれないか?」
 「んー? ……いいよー」
  恭也の頼みを、雫は子供らしい笑顔で受け入れた。
 「恭也殿、それは流石に不味いのではないか?」
  しかし、雫がそんな軽く訓練に協力を受け入れたことに、シグナムは戸惑う。
 「なんだ、雫に協力されるのは嫌か?」
 「嫌、というわけではないが……あまり、良くないと思うぞ」
  いくら雫が普通の子供ではなさそうと言っても、まだ八歳の女の子なのだ。それに、戦いというものは本来血生臭いものであり、あまり子供に見せられるものではない。
  だから、シグナムは雫が自分の訓練に付き合うことに難色を示したのだが。
 「なに、すぐに分かるさ」
  そう答えた恭也の真意を、シグナムはその後、身体で思い知ることになる。 




  制限時間は三日間。
  強くなるための、シグナムの戦いが始まった。