「お兄ちゃん!」
  大切な義兄の名前を叫び、フェイトは反射的に手を伸ばした。
  しかし、その手は虚しく宙をかき。
  一瞬の酩酊感の後、フェイトは、第一九八管理外世界の陸地に転送されていた。
 「あ…………」
  転送された瞬間と同じ体勢のまま、フェイトは身動きを取ることができなかった。
  頭の中をぐるぐると回るのは、ほんの数秒前までのクラウディア内の光景。
  鳴り響くアラーム。必死にコンソールを叩くオペレーター。泣きそうな顔で舵を取る操舵手。叫ぶように指示を飛ばすチーフオペレーター。メインブリッジを包み込む独特の雰囲気。動揺と混乱と絶望が混ざりあった嫌な感じ。甲高いアラーム音に神経が逆撫でされ、どうにかして被害を回避しようと足掻くクルー達の、しかしどうしようもないと分かっている彼らの言葉に不安感を感じる。
  そしてそんな中で、最後の最後に微笑んだ義兄。
  彼は言った。大切な家族を頼む、と。
  そんな言葉が聞きたかったんじゃない。彼の双子の子供達はまだ五歳になったばかりだ。これからまだ可愛い盛りではないか。それに、なんだかんだで仲の良い母親に、二歳年上の可愛らしい奥さんもいて、そして家族達も、自分も、いつも仕事で忙しい彼と一緒に過ごすことを心の底から望んでいる。
  クロノだって、それが分かっているのに。
  彼の口から洩れたのは、自分の最後を覚悟し、家族達のことを残された者に託す言葉であり。
  それが分かっていながら、彼の最後をただ見つめることしかできなかった。
 「――――」
  今のフェイトを襲うのは、どうしようもないやるせなさと、仲間を失ったことに対する不安、そして己の不甲斐なさを悔やむ自責の念。
  悔やんでも仕方がないのは分かっている。
  自分を責めたって何も起こらない。
  必要以上の不安感は行動力と判断力を鈍らせ、こうすれば仲間達を助けることができたのではないか、と考えたところで、仲間達は帰ってこない。
  そんなことを頭では理解しつつも、心が納得しない。
  時空管理局の執務官として事態を冷静に判断し、これからの行動を決断しようとする理性と、ただ仲間達を心配し、己の無力さ加減を責める意識がフェイトの中でせめぎ合い……僅かながらに意識の方が勝っている。
  それがこの体たらく。
 「フェイトさん…………」
  聞こえるのは、震えの混じるシャーリーの声。
 「クラウディアのシグナル……完全に、ロストしました…………」
  その言葉にフェイトは僅かながらに残っていた弱い希望――クラウディアもみんなも無事なのではないか――を打ち砕かれ、まるで奈落の底に落とされたかのような絶望感を感じる。
  そして、それと同時に、青い顔をし、声だけでなく全身が震え、今にも泣き崩れてしまいそうなシャーリーの姿に気付いた。
  その姿を見て、フェイトは再び己のことを叱責する。
  こういうときこそ、自分がしっかりしなければいけないのだ。自分はXV級次元航行艦『クラウディア』の執務官であり、シャーリーの上司であり、シャーリーの姉貴分なのだ。自分が子供達のことで不安定な時に、シャーリーはいつも自分のことを、執務官と執務官補佐の関係以上に、まるで姉妹のように親身になってサポートしてくれる。彼女が言うには、執務官と執務官補佐は姉妹同然。いつもいつも、彼女は公私にわたって、本当の妹のように自分のことを支えてくれている。そういう風に思ってくれることがフェイトはとても嬉しくて、本当の妹のいないフェイトも、まるで妹のようにシャーリーのことを可愛がっていた。
  ならば、正に今、自分がシャーリーのことを支えなければいけないのではないか。
  他でもない、彼女の姉貴分として。
 「…………クラウディアのシグナルロスト、確認しました」
  己の心を奮い立たせる。
  心を無理矢理切り替えて、自分の情けない感情を押し殺す。自分に言い聞かせる。
  私はフェイト・T・ハラオウン。
  時空管理局の執務官。
  そして、シャーリーの姉貴分であり、XV級次元航行艦二番艦『クラウディア』艦長、クロノ・ハラオウン提督の義妹なのだ。
  こんな所で諦めるなんて、そんな選択肢、許されるハズがない。
 「…………母艦の異常事態に対し、執務官フェイト・T・ハラオウンの権限において、これからの方針を決定します」
 「フェイト、さん……?」
 「フェイト・T・ハラオウン執務官、並びにシャリオ・フィニーノ執務官補佐の両名は時空管理局XV級七番艦・次元航行艦『スノーストーム』の捜索、並びに第一九八管理外世界『ヴェルト』の捜査を続行。加え、時空管理局XV級二番艦・次元航行艦『クラウディア』の捜索を同時進行します」
  あえて彼女のことを、シャーリーという愛称ではなく本名で呼ぶ。
  一切の感情を殺して、淡々と任務内容を読み上げる。
 「……何か質問は? シャリオ・フィニーノ執務官補佐」
 「…………あ、ありません! フェイト・T・ハラオウン執務官殿!」
  淡々と言葉を発するフェイトのことを呆けたように見つめていたシャーリーだったが、その紅い瞳に見つめられることで我を取り戻した。直立し、表情を変え、フェイトに向かって敬礼をする。だが、その足は未だに震えている。
  その足の震えを見なかったことにして、フェイトは言葉を続ける。
 「宜しい。では、任務を開始します」
  言い終えた後でも、フェイトはその畏まった姿勢を崩さない。
  シャーリーもフェイトに敬礼したまま、動こうとしない。
  二人を包み込むのは、いつも穏やかな雰囲気で仕事をする二人が本気で仕事をする時のお堅い態度、以上に緊張感を持った雰囲気。二人の間の空気は張り詰め過ぎていて、お堅い、と言うよりはむしろ張りつめられた糸のように不安定なものだった。
  そうして、数秒間見つめあった後……二人は、同時に脱力した。
 「……ごめん、シャーリー」
 「……何を謝るんですか? フェイトさんは、執務官として当然のことをしたまでです。だから私は、執務官補佐として、貴女の指示に従うだけです」
  分かってくれているな、そう思った。
  シャーリーは普段こそ割とキャピキャピしているが、その実とても優秀で聡い。学校の勉強や専門知識に優れているという意味ではなく、本当の意味で頭が良い。彼女はきっと、フェイトが思ったことや意図したことをすべて理解した上で、自分のポーズに乗ってくれたのだろう。そのことは、未だ震えている彼女の足や、平静を装っているようでまだ青ざめている顔を見れば一目瞭然。
  本当にできた子だとフェイトは思う。
  同時に、感情を押し殺してまで自分のことを信頼してくれることに感謝する。
  だから、そんな彼女のためにも、私は毅然としていなければならない。
 「…………じゃあ、仕事を始めようか」
 「…………はい。フェイトさん」
  考えたいことは山ほどある。
  本当は、今にも叫んで取り乱しそうになる。いっそ、その方が楽になるのかもしれない。
  だけどそんなこと、死んでもごめんだ。
  それに、だ。
  クロノも含めて、クラウディアのクルー達がそう簡単にやられるとは思えない。彼らは皆優秀だ。フェイトにはどうしても、彼らともう会えないとは思えなかった。
  みんな、必ずどこかで生きている。
  だから、私達が助けないと。
 「…………」
  フェイトは自分の感情を殺して、周囲の様子を観察する。
  先ほどまでは動揺していて気付かなかったが、自分達は今鬱蒼と生い茂る木々の中にいる。辺り一面が樹木に覆われ、どんなに視線を凝らしても他のものが見えないことから、フェイトは密林、あるいはそれに類する場所にいると認識した。
  足元に視線を向ける。靴で軽く地面を掘ってみると、その土は赤っぽい。鉄分が多く混じった痩せた土地だということか。気候は温暖で、空気は少し湿っている。ということは、ここは熱帯気候、あるいはそれに類するもので、地球で言うジャングルのような場所……なのだろか。
 「シャーリー、今の私達の居場所は?」
 「はい、スキャナーによりますと、ここは大陸南部の森林地帯……その端っこの方ですね」
  確か当初の予定では、大陸北部にあるこの大陸で最も大きな街の郊外に転送されるハズだった。それが反対側の大陸南部に転送されてしまった。おそらく、変調した時空が転送装置の座標に干渉してしまったのだろう。この場合、転送地点が大幅にずれてしまったことを嘆くのではなく、転送が失敗して自分達の存在が崩壊してしまわなかったこと、あるいはこの惑星面積の九割近くを占める海の上に転送されなかったことを喜ぶべきだろう。
 「……あ、フェイトさん、比較的近くに小さな集落があります。方角も北の方ですし、目的地に向かうには、その集落を経由するのが良いと思います」
  小さなスキャナーから展開されるコンソールを叩きながら、シャーリーが進言する。
 「集落?」
 「はい。大体五〇〇人くらいが住んでいる、小さな集落です。……あー、でも、下手に接触するのもまずいですよね」
 「…………」
  顎に手を当てて、フェイトは考える。
  確かに、この世界にある技術よりも遥かに高度な文明を持つ世界から来た自分達は、下手にその世界の住民に接触しない方がいい。何故なら、もし自分達の持つ技術がこの世界に流出すると、無用なトラブルや混乱を招き、最悪その世界そのものの歴史を捻じ曲げ、崩壊させてしまう可能性があるからだ。
  しかし、情報を得るためには、いずれは住民に接触する必要性があることもまた事実。あらゆる可能性を考慮して、住民への接触は最低限にするべきだが……。
 「…………いや、その集落に向かおう」
  熟考し、フェイトは決断を下した。
  なるべく情報は多い方が良いというのもある。この世界の住民の生活等を早めに確認しておいて、なるべく怪しまれないようにしたい、という理由もある。それに、この世界にはまだ未熟とはいえ魔法技術もある。最悪それで誤魔化せるし、それに元より文明レベルの低い世界だ。封建制度が崩壊し始めているということは、製鉄技術もまともに存在しないし、遠く離れた別大陸に向かうための長距離航海技術だってまだ存在していない。だからこの世界の住民は、この大陸以外の大陸がこの世界に存在しないことはおろか、自分達が住んでいる世界の全容すらも把握できていないハズだ。だから、もし身元を尋ねられたら、別の大陸から来たと誤魔化せばいい。自分の住んでいる大陸以外に別の大陸が存在するかどうか、彼らは知らないのだから。
  それと、これはフェイトの執務官としての勘のようなもの、なのだが。
  この世界の富と技術のほとんどは大陸北側に存在している。だからこその封建制度の崩壊に伴うこの大陸北側と南側の戦争直前の状態なのだが、フェイトにはどうも、その歴史的変遷と今回の事件が関わっているような、そんな気がしていた。
  いくらなんでも、タイミングが良すぎるのだ。
  ありえないことではないが……どうもキナ臭い。
  とりあえず、この大陸の情勢を早めに知るためにも、その集落の住民に話を聞いておきたい。
 「シャーリー。その集落はここからどれくらいの距離にある?」
 「はい。ここからほぼ北に向かって約一〇キロ、ってところですね。この辺は密林地帯で足場も不安定ですし、歩いて三、四時間といったところでしょうか」
 「……飛んで行けないかな?」
 「……大丈夫でしょう。この世界にも魔力による飛行技術はありますし、近くまで飛んで行って、それから歩いて集落に入れば問題ないかと」
 「じゃあ、近くまでは飛んで行こう。慣れない密林地帯を歩くのは不安だし、体力はなるべく温存しておきたい」
 「了解です、フェイトさん」
  シャーリーの了解を確認し、フェイトはシャーリーを抱きかかえてから飛行魔法を展開する。まずは上に向かい、密林地帯の上に抜ける。それから、目的地への方角を確認する。
  フェイト達が今着ているのは管理局の制服ではなく野外作業用の動きやすい特殊な服で、魔力なしでもジャケットに近い働きをするような加工がなされているので、飛行魔法程度ならわざわざジャケットに換装する必要もない。
  目的地はここから北に約一〇キロ。
  フェイト達は集落に向かい、飛行を開始した。




 
          ※



  やがて、大した労力もかけずに、二人は目的の集落から少し離れた密林地帯に着地した。ここから集落までならば、歩いて三〇分ほどだ。もう少し近付いてもいいのかもしれないが、集落の人間に発見される可能性を考えると、この辺りが限界だ。
 「ここからは歩きですね」
 「ところで、シャーリー。忘れてたんだけど、この森林地帯には大型の肉食獣とかはいないの? ほら、人間を襲って捕食するようなの」
 「……あ」
  慌ててスキャナーを起動させ、周囲の生体反応を探るシャーリー。正面から相手すれば、そこらの大型生物にフェイトが負けることはない。だが、こういうった密林地帯に生息する大型肉食獣というのは、えてして不意打ちや襲撃が得意なのだ。隙を突かれる可能性を考えて、周囲の大型生物を警戒するに越したことはない。
 「えー……いますね、大型の肉食獣。私達の近くにはいませんが、割と近くに……あれ、これって……」
 「どうしたの、シャーリー?」
 「ええ、ほら、ここ見て下さい。この、私達の一番近くにあるこの反応のすぐ傍に――」
  説明を続けるシャーリーの声が、周囲に響き渡った甲高い悲鳴によって遮られる。
  その悲鳴は動物のものではなく、明らかに人間の、それも若い女性……いや、それよりももっと幼い少女のものだ。
 「シャーリー!」
 「はい、フェイトさん!」
  その声を聞いて、フェイトは躊躇うことなく駆け出した。
  本来、こういった世界で住民に干渉することはあまり良いことではない。その世界にはその世界特有の発展の仕方がある。下手な干渉はその世界の歴史を捻じ曲げてしまいかねない。だから、緊急事態や止むにやまれぬ事情がある場合を除いて、例えいかなる状態でも……目の前の人間を見殺しにしなければならない状況であっても、干渉することは許されない。
  それが、どうした。
  フェイトは木々の合間を駆け抜ける。
  確かにこういう場合、この悲鳴を無視するのが管理局の執務官として、いや、先進文明の住人として正しいのだろう。だが、フェイトは目の前で苦しんでいる人達を見捨てるために執務官になったのではない。
  規律に縛られて、後で助けられずに後悔するなんて、もう絶対に嫌だ。
  幸いなことに、この世界には未発達とはいえ魔法文化がある。ここがもし魔法文化のない世界だったらフェイトももう少し躊躇ったかもしれないが、現地住民への誤魔化しの言葉や事情はすでに考えてある。
  だから、大丈夫だ。
  脚部に魔力を収束、主に下半身周りの能力を強化して、ギャップの激しい大地を駆ける。目的地はすぐそこ、百数十メートル先。スキャナーの反応を頼りに近付くと、そこには木の根に足を取られて転ぶ少女の姿と、その少女に今にも襲いかからんとする大型生物の姿。
 「バルディッシュ!」
 『Yes.sir』
  瞬間的にバルディッシュを起動。同時に全身に魔力を循環させて残り十数メートルの距離を一瞬で詰める。フェイトの得意魔法のひとつ、ブリッツアクション。加速の勢いそのままに起動したバルディッシュの石突を前に向け、大型生物に刺突する。その勢いはまるで弾丸。一点に集中した加速のベクトルを大型生物はまともに食らい、数百キロはありそうな巨体が十数メートル向こう側へ弾き飛ばされる。
  フェイトは激突の衝撃で加速の勢いを上手く相殺し、危なげなく着地する。
 「大丈夫?」
  それから、木の根に足を取られて転んだ少女に、なるべく優しく話しかける。少女の年の瀬は、おそらく十五歳前後。大型の肉食生物に襲われた恐怖と、突然のフェイトの出現に対する驚きからか、フェイトの問いかけに咄嗟に言葉が出せないようだ。
  その様子を見て、フェイトは転んだまま動けない少女をちゃんと座らせてから、その目線の高さに合わせるように自分もその場にしゃがみ、笑いかけた。
 「……私の名前は、フェイト。あなたのお名前、教えてくれるかな?」
 「へ……? …………あ、えっと、…………ミリア。ミリア・クーリッジ」
 「ミリア……か。優しそうで、いい名前だね」
  フェイトはミリアに笑いかけ……しかし、周囲への警戒を怠らない。
  そして、思っていたよりも早く、驚異が再びやってきた。
  ミリアを襲っていた大型の肉食獣の見た目は、地球のゴリラに似ていた。違うところは、その大きさ。地球のゴリラよりも圧倒的に大きく、二メートル以上の大きさがある。それに合わせて身体も大きいのだが、その中でも特に腕の直径が八〇センチほどで、胴体に不釣り合いなほどに大きい。小さな子供なら一飲みにしてしまいそうなほどに大きい口から覗く歯は鋭く尖っており、鋭利な刃物を連想させる。あの歯は、口に含んだものをすり潰す草食動物のものではなく、相手の喉笛に噛みつき、肉を引きちぎるための肉食動物の歯だ。
 「…………」
  フェイトはミリアを背中に庇うように立ち上がり、バルディッシュを構える。バリアジャケットには換装しない。フェイトが今着ている服は管理局特製の作業服であり、耐衝撃や耐魔法攻撃といった、魔力なしでもバリアジャケットに近い効力を持つ特殊繊維で作られている。無論本物のバリアジャケットには及ばないが、野生動物を相手にするには十分だ。
  いくら原始的な魔法技術が存在する世界とはいえ、ミッドチルダ式のような、体系化された高度な技術を下手に使用するのはなるべく避けたいところだ。それに、元よりフェイトの戦闘は相手の攻撃を受け止めることを想定していない。相手が知覚できなほどの速度で動き、その神速を以てして相手を倒す。
  そういう戦闘スタイルだからこそ、無理にバリアジャケットに換装する必然性がないのだ。
 「…………」
  睨み合うフェイトと大型生物。
  これで相手が説得に応じてくれる相手ならいいのだが、どう見てもフェイトの言葉が通じるようには見えない。威圧や威嚇といったものに反応するとも思えない。
  フェイトは考える。
  ここはミリアのことを守るべきなのだが、なるべく現地の動植物への被害も出したくない。とにかく、この世界への干渉を最低限にしたいのだ。だから、フェイトが眼前の大型生物に加える攻撃は、スタン。高電圧の電気ショックで相手を麻痺させて身体の自由を奪う。無暗に殺す必要はない。それで十分だ。
  故にフェイトは、バルディッシュに電気を付加する。魔力変換資質『電気』を有するフェイトだから、電撃系の魔法は得意中の得意だ。ほとんど一瞬でチャージを終え、
  それと同時に、全身の神経が逆立つような咆哮を上げ、大型生物が襲いかかって来た。
  胴体に不釣り合いなほどに大きく見えるその腕を振りかぶって、力任せの一撃。魔力付加もしていないのに、その腕の振りはほとんど目で追うことができない。これが野生の大型生物の力なのか。だが、いくら早くでも、どれだけ力強くても、そんな隙だらけの一撃を喰らうほど、フェイトは弱くない。
 『Blitz action』
  周囲に響くのはバルディッシュから放たれる、落ち着いた男性の声。短距離限定の超高速移動魔法。瞬間移動と見間違えるほどの速度で大型生物の攻撃を回避・同時に背後に接近、電撃を付与させたバルディッシュを、大型生物の背中に密着させる。
 「スタン!」
  そして、貯めていた電気を解放する。大型生物を襲うのは一〇万ボルト近い高電圧。バチン、という音と、若干の肉の焦げる臭いをフェイトが確認し、
  次の瞬間、振り向き様に襲ってきた巨大な拳を、フェイトはバルディッシュでなんとか受け止めた。
 「え!?」
  その威力は予想以上のもので、まるで軽乗用車に激突されたような錯覚を覚える。その威力を殺すためにフェイトは反射的に後ろに跳び、同時に全身に魔力を付与させる。数メートル後ろに着地し、すぐさま体勢を整える。
  幸いなことに巨大生物の注意はミリアから完全に逸らすことができたらしく、大型生物は鈍い唸り声をあげながらこちらに近づいてくる。
  その歩調に合わせるように、フェイトは巨大生物から視線を逸らさず、ゆっくりと後退する。ミリアから更に離れるために。
 (スタンが効かない?)
  後退を続けながら、フェイトは考える。
  先ほどのスタンは強力なもので、象クラスの巨大生物でも一撃で昏倒させるほどの威力があったハズだ。それを背後から直撃して、魔力的な防御能力のない野生動物にまったく利いていないというのは、どういうことなのか。
  考えられる理由はひとつ。
  あの大型生物の皮膚の下には分厚い皮下脂肪があり、それが電撃から身体を守る鎧のように働いた、ということ。元より生物の脂肪組織というものは絶縁体であり、電気を通すことはほとんどない。身体が大きければそれに比例するように皮下脂肪層も大きくなり、それだけ分厚い皮下脂肪を有しているのならば、電気が通用しないのも頷ける。
  …………分厚い皮下脂肪?
  自分の出した結論に僅かな違和感を感じ……しかし、フェイトはその違和感を今は考えないことにする。
  重要なのは、ミリアの身を守ること。
  僅かな疑問など、今は後回しだ。
  電撃の効かない大型生物。
  それを電撃で昏倒させることは、おそらく不可能に近い。
  それならば。
 「バルディッシュ」
 『Haken form』
  バルディッシュへの指示と共に前に踏み込む。三度目のブリッツアクション。短距離においては瞬間移動に遜色ないほどの速力を誇る高速移動魔法に大型生物は反応しきれない。野生動物の本能や感覚すらも超越する速度。それだけの速さで、フェイトは大型生物に肉薄し、
 「――ごめんね」
  起動させたのはハーケンフォーム。鎌状の魔力の刃を形成した形態。その刃を大型生物の首筋に当て……加速の勢いを殺さずに、その横を通過する。切れ味の良い鎌状の魔力刃に、肉眼では確認できないほどの速度。それだけの速度で刃を首筋に当てられたらどうなるのか、子供でも答えられる。
  大型生物の頸はほんの一瞬前、フェイトににじり寄っていた時とまったく変わらない表情のまま…………数秒の間をおいた後、崩れるように地面に倒れ伏した。
  電撃の効かない相手。逃げるという選択肢もあった。だが、あの感じからして、おそらく逃げても追いかけられただろう。それでも、自分一人ならば逃げていた。だが、傍にはミリアとシャーリーもいたのだ。彼女達を護るために、フェイトは大型生物を攻撃することを選んだ。
  こういうときに、魔法というものに感謝する。
  非殺傷設定。たったそれだけのコマンドで、相手の命を奪うことなく攻撃することができる。
  しかしそれでも、バルディッシュの薄い刃にフェイトの神速による一撃を喰らえば、刃によって頸を刎ねられることはなくても、おそらく死ぬほど痛いだろう。
  だからフェイトは大型生物の頸を刎ねる直前、ごめんね、と呟いた。
  せめてもの贖罪として。
  やむをえないことだったのは分かっている。だが、どうしても慣れることはない。
  何かを傷つけるということは。
 「…………」
  倒れ伏した大型生物の意識を確認してから、フェイトは大型生物に背を向けた。それから、先ほどの場所で一切の身動きを取っていないミリアの元に歩み寄る。
 「もう、大丈夫だよ。あなたを襲うものは、もう何もいないから」
 「あ…………」
  神経が極限まで緊張していたのか、フェイトの言葉にミリアはビクリと身体を震わせた。だが、優しく微笑むフェイトを見てもう安全だと思ったのか、全身の硬直が解け、それから一気に脱力し、力なくその場に倒れこんだ。
 「だ、大丈夫?」
 「…………こ、腰、抜けちゃって…………」
  何か具合でも悪くなったのか、と心配したフェイトだったが、その心配は杞憂だったようだ。
  ミリアが無事だったことに安堵しつつ、フェイトは再びミリアに話しかける。
 「怪我とか、痛いところはない?」
 「あ…………足が、その…………」
  ミリアは力の抜けた声でそう言いながら、これまた力なく自分の右の足を指差す。転んだ時に捻ったのか、ミリアの細い右足首は赤く腫れあがっていた。
  フェイトはすぐさま右足首の状態を確認する。骨が折れているわけではなく、どうやら軽い捻挫のようだ。これなら安静にしていれば、一週間もしない内に腫れも引いて歩けるようになるだろう。
 「でも、これじゃ歩けないね」
 「はい…………」
  力なく頷くミリア。
  そのミリアを見てから、フェイトは数秒間の思考の後、何も言わずにミリアのことを抱き上げた。
 「ひゃ」
 「歩けないみたいだから、私が家まで連れて行ってあげるよ」
 「え、そんな、悪いですよ、助けてもらったのにそんなことまでしてもらうなんて!」
 「いいから、いいから。それに私達も、あなたが住んでる集落に用があるから」
 「え、そうなんですか?」
 「ええ。だから、私達の目的のついでにあなたのことを運ぶだけです。それに今見たとおり、フェイトさんはとっても強いんです。だから、あなたのことを抱えてあなたの家まで行くことなんて朝飯前なんだから。それに、道案内の人が欲しかったところですし。だから、そんなに気にしないで、ね?」
 「……分かりました。だったら、お願い、してもいいですか?」
 「もちろんだよ、ミリア」
  初めは遠慮する素振りを見せるミリアだったが、フェイトに加えてシャーリーにも説得されて、ようやく折れたらしい。道案内が必要だった、というのはシャーリーのアドリブだが、ここでミリアのような現地の住民に案内してもらった方が、彼らに余計な不安を与えずに済むし、もしかしたら余計な警戒心を抱かすことなく有用な情報を得られるかもしれない。
  ミリアの了解を得て、フェイトはミリアを運びやすいように背負い直し、ミリアのナビゲートに従いながら、当初の目的地である集落に向かった。 









  ここで、『管理外世界には不干渉の鉄則』を破り『ミリアを助ける』という選択肢を選んだフェイトの行動は、はたして正しいものだったのか。
  それを知る術を、ここにいる誰もが持っていない。