王都アクアエリーで始まった、抵抗勢力『オリハルコン』の王都侵攻戦。
  正規軍一万に対し、反乱軍三千。加えて、正規軍は慣れた王都での防衛戦。どう贔屓目に見ても、反乱軍の勝率は限りなくゼロに近い。
  だが、オリハルコンのリーダー、ジャック・メサイアの能力により、戦況は一変する。
  ジャック・メサイアの能力『 空間移動能力 テレポーテーション
  魔法ではなく、精神の力を使う。時空管理局からは正体不明のレアスキル扱いを受け――一部の世界では、超能力と呼ばれる異能の力。魔力やそれに等しいエネルギーの循環も、予備動作もなしに、一瞬で空間を移動する能力。
  その能力で、正規軍の本陣付近に抵抗勢力の精鋭を五十人ほど転移。背後からの本陣への強襲により、戦線は混乱。司令部の混乱に呼応し、全構成員による大規模突撃をかける抵抗勢力。防戦一方だった戦況が一気に乱戦に持ち込まれ、結果として数の少ない反乱軍の有利な方向に戦況が動いていた。
  数で勝る正規軍と、士気で勝る抵抗勢力。
  抵抗勢力が勢いで戦線を押しているが、根本的な数と練度が異なる。結果として戦線は拮抗し、どちらも勝利のきっかけが見えないまま、終わりの見えない戦闘が続く。
  誰の勝利も見えず、戦況は泥沼化。このまま戦闘が続けば、どちらが勝利を収めるにしても、相当数の被害が出ることは間違いがない。
  第百九十七管理外世界『ヴェルト』の歴史に残る一大戦線。
  その戦線の火蓋が切って落とされる――次元時間にして、約三〇〇時間前。
  時空管理局次元航行部隊所属。XV級次元航行艦・二番艦『クラウディア』
  そして、フェイトの義兄であり、クラウディアの艦長であるクロノ・ハラオウン提督と、彼の部下であるクラウディアクルー。
  彼らは、次元の狭間にいた。








  動揺していない、と言えば嘘になる。
  だが、自分には動揺し、取り乱すことは許されていない。そのようなことがあってはならない。
  なぜなら、自分は次元航行艦の艦長なのだ。艦の運航の最高責任者であり、最高権力者。次元世界の平和を守る使者の代表であり、自身が搭乗する次元航行艦『クラウディア』のクルー全員の命を預かる身でもある。
  それだけの立場にある自分が動揺すること自体はかまわない。しかし、それを僅かにでも表に出せば、それは瞬く間にクルー達の間に広まり、ひいては彼らの命に関わることになる。トップという存在には、それだけの責任があるのだ。
  だから、自分は常に冷静で、余裕を持っていなければならない。
  どれだけ絶望的な状況でも、トップが希望を捨てなければ、その想いはクルー全員の希望になるのだから。
  そのことを痛いほどに理解し、クロノは極めて落ち着いた声で、オペレーターに問いかけた。
 「状況を報告しろ」
 「は、はい。……現在、本艦は異常重力場による次元崩壊に巻き込まれ、現在、未確認の次元の狭間にいると思われます」
  動揺を隠し切れていないオペレーターの声。
  これでも、クロノが極めて冷静でいるから、まともに職務を遂行できるのだ。
 「外の状況はどうなっている?」
 「……メインモニターは、正常に作動しています」
 「……何も映っていないぞ?」
 「現在、クラウディアのサーチ能力を全開で調べていますが……間違いありません。これが、周囲の状況です。何も、クラウディアの周囲には存在していないんです」
  ブリッジ前方に映し出される、クラウディア正面メインカメラの外部映像。
  巨大モニターに映されるのは、黒。まるで電源を切った映像機器のように、何も映し出されていない。モニターの不調だとクロノは考えていたが、どうやらそういうわけではないらしい。
  クラウディアに装備されたすべての情報機器が告げている。
  クラウディアの周囲には……この空間には、クラウディア以外のいかなるものも存在していない。大気も、魔力も、物質も、液体も。粒子、電子、光子、電磁波、マイクロウェーブ、ありとあらゆる波長まで。生命体はおろか、無機物有機物の類ですら、この空間には存在していない。
  メインモニターに映し出されるのは、何も存在していない黒色、ただそれのみなのだ。
 「この空間の詳細は分かるか?」
 「現在サーチャーを周囲に飛ばして広域探査中ですが……現段階では、未確認としか言いようがありません」
 「未確認、だと?」
 「私達が今いるのは、時空管理局の艦隊が超長距離航行時に利用する次元とも、その他の我々の技術で観測できる次元でもありません。……管理局の技術的には、我々が存在する空間は未だ存在していないことになっています。少なくても、クラウディアのデータベースには、現空間の情報はありません」
  管理局の定義では、この空間は存在していない。
  それは、管理局の保有する技術程度では、この次元に干渉することはおろか、この次元を観測することも……この次元が存在していることを証明することですら不可能ということである。
 「…………引き続き、周囲の探索を続けろ」
  管理局にすら未知の次元に閉じ込められた。
  その事実は一つの絶望的な真実を示しているが、そのことを誰も口にしようとしない。
  言葉にするということは、それを現実として受け入れるということ。
  異常重力場による次元崩壊に呑み込まれて、管理局時間でまだ数十分しか過ぎていない。
  たったそれだけの時間で、すべての希望を自ら断ち切ってしまうことに、クロノを含めたクルー全員が躊躇いを覚えていた。
  しかし、そうは言っても、今の自分達にできることなど何もない。
  クラウディアブリッジの、全体を見渡せる高い位置にある艦長席の椅子に座ったまま、クロノは静かにサーチャーの探査結果を待つ。
  そして……それから更に数十分後、周囲にばら撒いたサーチャーが、この空間の探査結果をメインモニターに映し出した。
 「……バカな……クラインスペースだと!?」
  サーチャーが持ち帰った情報に、クロノは珍しく顔色を変え、驚嘆の声を上げる。
  クラインスペース。
  それは、クラインの壺、と呼ばれる存在に起因する。
  そもそも、クラインの壺とは何なのか。
  例えば、一枚の短冊を用意したとしよう。これに一回捻りを加えて両端を張り付けることで、表裏の判別のできない、言いかえれば表裏の区別のできないリング……メビウスの輪が完成する。
  クラインの壺とは、メビウスの輪が二次元を端にする存在であるのに対し、それを三次元に適応したものだ、と解釈すれば良い。現実には不可能であるが、三次元空間を捻り、端と端を繋げばクラインの壺が完成する。
  その内部は、外界と区切られた空間でありながら、その端が存在しないのだ。もし端を目指して進んでも、いずれ元の場所に戻ってきてしまう。空間的に完結しており、その広さは有限でありながら、感覚的には無限の広さに感じてしまう。
  クロノが驚嘆したのは、そのような空間内に自分達が存在していることだ。
  何故なら、理論上クラインスペースは三次元空間に存在することはできす、またクラインスペース内には三次元空間のいかなる物体も存在できないのだ。
  言い方を変えればクラインスペースとは、縦横奥行きという三次元空間を構成するための定義の存在できない空間であり、そのような空間に三次元世界の法則に従って存在しているクラウディアが存在することは、絶対にできない。同様に、三次元世界の法則に従う次元に、クラインスペースが存在することも、絶対にできない。その空間に取り込まれたが最後、縦横奥行きの定義を失い、クラウディアは崩壊するのが普通なのだ。
  それなのに、クラウディアという存在は未だ健在。
  それはつまり、何者かがこの空間を創りだし、そして内部にクラウディアがいてもその次元を維持できるようにコントロールしているということ。
  そのテクノロジーの高度さは、かつて管理局など足元にも及ばないほどの高度な技術を生み出した、アルハザードのそれに匹敵する。
  問題なのは、クラインスペースという存在があまりにも高度すぎて、管理局の技術ではその内部に入ってようやくその存在を確認することが精一杯だということ。そして、三次元世界の物理法則が完全に通用せず、三次元世界の技術を元とするクラウディアでは、この空間に干渉することなど不可能だということだ。
  ただ、一つの例外を除いては。
 「…………艦長! クラウディア後方より、通信信号を確認!」
 「……信号の発信元はわかるか?」
 「この識別信号は……スノーストーム! 七番艦スノーストーム、健在です!」
 「通信回線開け! あちらの映像をメインモニターに。同時に、スノーストームへ向かえ! 最大船速だ!」
  実はこの空間の存在を確認した時から、薄々感づいていた。
  スノーストームも、この空間に呑み込まれたということに。
  そして、自分達が健在であるということは、スノーストームも健在である可能性が高いということも、クロノは予測していた。
  これで、この宙域に来た目的……スノーストームの安否確認という目的の一つは果たされた。
  次の目的は、この空間……クラインスペースからの脱出。
 「……希望となるか? スノーストーム」
  何がどうなるか分からないが、クラウディアは、スノーストームと合流するための進路を取る。
  スノーストームと協力すれば、事態が打破できるのか。
  僅かな希望を胸に、クラウディアは反転動作に入るのだった。








 「時空管理局次元航行部隊所属、XV級次元航行艦七番艦『スノーストーム』艦長の、ミハエル・ドレットノートだ。クロノ・ハラオウン提督、救援感謝する。スノーストームクルーを代表して、礼を言わせてもらおう」
 「いえ。仲間を救うという、当然のことをしたまでです。ドレットノート提督」
  メインモニターに映し出される、白髪の老人の姿。齢六十を超えていることは間違いがないが、モニター越しでも伝わってくる貫録と、年老いても衰えを見せない眼光に、この人物の築いてきた歴史の深さを無意識に感じさせられる。
  スノーストーム艦長、ミハエル・ドレットノート提督。
  冷静沈着にして、下す判断は常に正確。それでいて情に熱く、熱血直情家という内面を持ち合わせる。かつてクロノが世話になったギル・グレアム提督と同様に『管理局歴戦の勇士』と呼ばれるほどの英傑で、三十年前にミハエルが旗艦長を務めた艦隊戦『第三次ガレオス進攻戦』での立ち回りは、管理局史に残るほどの戦果を収めている。訓練校の教科書にも、彼の名前は大々的に取り上げられているくらいだ。
  現行の管理局職員、特に次元航行部隊にとっては正に、生ける伝説とでもいえる存在。
 「…………久しぶりだな、クロノ提督。最後に会ったのが、君の提督任命の時か。まったく、小生意気な小僧だったクロノが、今や提督で、艦長とは。ワシも年を取ったものだ」
 「敵いませんね。私の幼い頃を知っているのですから」
  そしてクロノとしては、グレアム提督繋がりで過去に個人的な親交があった。
  最後に出会ったのは数年前だが、管理局の上層部でも数少ない、話の分かる有能な人物として、クロノが一目おく存在でもある。
 「積もる話はあるが……まずは、現状の確認をしようか」
 「はい。クラウディアとスノーストーム。双方がクラインスペースに閉じ込められ、脱出できない状況にあります」
 「やはり……クラインスペースか」
 「はい。こちらのメインコンピューターも、そう判断しています」
 「…………ところで、クロノ。スノーストームの救援信号を受けてからクラウディアがクラインスペースに閉じ込められるまで、一体どれだけの時間が過ぎている?」
 「約十二時間です。しかし、それが何か?」
 「我々の時間では、この空間に閉じ込められてからクロノ達に合流するまで、まだ三時間程度しか過ぎていないのだよ」
 「なんですって?」
  クラインスペースには、縦横奥行きという、三次元世界を定義する法則が通用しない。
  外の世界での法則など、クラインスペース内では意味をなさない。完全に独自の物理法則を有する……と言うよりは、いかなる物理法則すらも存在しない世界。
  そのような空間で、どうして、外の世界と同様の時間軸を有することがあり得ようか。
 「クラウディアとスノーストームの記録から計算するに、クラインスペース内と通常空間との時間差は約一〇倍です」
  スノーストームのオペレーターが、クラウディアのデータベースとリンクした結果を伝える。
  その言葉に、クロノは焦りを覚えた。
  時間差一〇倍。それは、外の世界の時間は、クロノ達の体感時間の実に一〇倍の速度ですぎているということだ。
  クラインスペースに一日いれば、外の世界では一〇日過ぎている。
  それが、何を意味しているのか。
 「やはり、そうか……」
  憔悴した表情を見せるドレットノート提督。
 「クロノ提督。……すまない。我々を助けに来たばかりに、君達まで巻き込んでしまって。我々の技術力をはるかに超えた技術による空間的拘束だ。管理局の次元航行艦が自力でこの空間から通常次元に復帰することは不可能に近い。加えて、内外の時間差が約十倍だ。これが何を意味するか、分かっているね?」
 「…………」
 「絶望的な状況だよ。いかなる手段も、我々には残されていない。ならばせめて、この運命を受け入れることが、殊勝だとは思わないかね?」
 「いえ。それを言うならば、助けに来てむざむざと同じ手に引っ掛かった我々こそ、謝らなければなりません。それに……」
 「……それに?」
 「ドレットノート提督。あなたも、諦めていませんね?」
  絶望的な状況にありながら、いつもの調子を崩さないクロノ。その態度も、いつもと変わらない。生ける伝説とまで呼ばれるドレットノート。そんな人物の憔悴した表情を前にしても、クロノは変わらなかった。
  そんなクロノの態度に、驚きの表情を浮かべるドレットノート。
  この場にいた誰もが予想だにもしなかったクロノの台詞。
  その言葉を受け、睨みつけるような強い眼差しで、ドレットノートはクロノに視線を向ける。
  たったのそれだけで、クラウディアメインブリッジの温度が下がった。いや、実際には温度に変化はない。クラウディアの空調機能は完璧であり、温度管理も万全だ。クラウディアのブリッジにいる全員が、ドレッドノートの視線を受けて、気温が下がったような錯覚を受けたのだ。
  モニター越しだというのに、その蒼い瞳を直視することができない。この場にいないのに、迂闊に動くことができない。感じるのは、途方もないプレッシャー。年齢を感じさせない、あまりにも強い眼差しは、たったそれだけでクラウディアクルーの動きを、ほとんど完全に封じていた。
  だが、常人ならばそれだけで足がすくんでしまうほどの眼光を、クロノは真正面から受け止める。蛇に射竦められた蛙のように、身動きが取れなくなったわけではない。部下達全員の動きを封じるほどの視線を、クロノは完全に受け止めていた。
  そうして二人の視線が交錯したまま、時間が過ぎる。
  やがてクラウディアのオペレーターが、モニター越しに二人が醸し出す緊張感に耐え切れなくなり、モニターのスイッチを切ろうかと思った直前に――ドレットノート提督がニヤリと、微笑んだ。
 「はは。成長したものだな、クロノ。昔の君なら、私の挑発に乗せられて、慌ててアクションを起こそうとしただろう」
 「ドレットノート提督も人が悪い。私はもう、あなたが思うような若造ではないのですよ?」
 「……今では子供がいるんだったな?」
 「はい。双子の兄妹で、可愛い盛りです」
 「あのクロノが、今では人の親か」
 「私だって、いつまでも小僧ではありませんよ」
 「ならば子供達のために、早くこの空間から脱出せねばな」
  先程までの、肌が焼けるような緊張感はどこへ行ったのか。
  このような状況だというのに、まるで成長した孫にあった老人のような、穏やかな会話をするドレットノート。
  クラウディアのクルー達は、今までに体験したことがないほどに張りつめた空気から解放されたことに安堵しつつ、その変わり身に、意味が分からない、という表情を浮かべている。
  そんな部下達の様子を見て、クロノは苦笑を浮かべた。
 「……ドレットノート提督の、一流のジョークだ。知らない君達には、刺激が強すぎたか?」
  昔から、ドレットノートはこうだった。
  まるで試すかのように、年若い部下達を挑発にかけ、手玉に取る。個人的な親交を持つクロノも例外ではなく、当時のクロノは毎回それに冷静に対処しようとして、しかし最終的には熱くなり、一杯食わされていた。
  今回のわざと雰囲気を暗くするような言葉も、それだけで射殺されてしまいそうな鋭い視線も、身じろぎすら許されないほどに張りつめた空気も、すべてドレットノートの演技だったのだ。
  よくよく見れば、モニター越しに見えるスノーストームのオペレーター達は、皆一様に苦笑いを浮かべているではないか。
  つまり、スノーストームのクルー全員が、ドレットノートの言葉に悪乗りをしていたのだ。
  歴戦の勇士が艦長を務める、次元航行艦スノーストーム。
  その乗組員達もまた、老練の戦士達だった。
 「……ですが、それだけの余裕があるということは、脱出の手立てがあると?」
 「ああ。尤も、我々だけではそれも不可能だったが……君達が来てくれたおかげで、希望が見えたよ」
  脱出不可能の砦、クラインスペース。
 「だが、そのクラインスペースですら、制御しているのは人が造ったものだ。それが人の造りだしたものである限り、解決法は必ず存在する」
  断言するドレットノート。
  その言葉に、クロノも同調する。
 「ええ。どれだけ絶望的な状況でも、我々はそれをすべて乗り越えてきました。だからこそ、今の私達はここにいます」
 「……フン。若造が」
 「……それは、褒め言葉と受け取っても?」
  呼び方が、小僧から若造へ。
  その変化を、少しでもドレットノートに認められた証だと思いつつも、もう若造という歳でもないのだがな、とクロノは再び苦笑した。
 「…………脱出するぞ」
 「はい。もちろんです」
  老練の勇士と、若き獅子。
  クラウディアとスノーストームの、共同作戦が開始した。




  ブリーフィング。
  それは、部隊に所属する者達にとって、とても重要な意味をなす。
  部隊を構成しているということは、当然のことながら仲間達と協力することが求められる。だが、人は他人の心を読むことはできない。同じ志を持ち、同じ部隊に所属する同じ人間であっても、考え方は千差万別なのだ。そのような状態で共同戦線を組むには、お互いの意志疎通を図らねばならない。
  どういう方針でいくのか。
  どのような作戦を立てるのか。
  誰が実行し、どうやって決行するのか。
  どれだけ親密な間柄でも、人はお互いに言葉を交わさなければ、通じ合うことはできないのだ。
 「…………艦長、出ました! 特異相克点、解析完了!」
 「座標、メインモニターに出ます。……艦長、指示を」
 「すぐに該当座標に向かえ!」
 「面舵一杯! 最大船速!」
  そして意志疎通というのは、部隊の規模が大きければ大きいほど重要なものとなってくる。
  大規模の人員を動かすとどうしても、末端まで指示や情報が完全に行き渡らないことが多い。認識の些細な違いが、最終的に大きな誤差になっていることもよくあることだ。そして何より、部隊というものは、敵あれ味方であれ、大なり小なり誰かの命を預かっているものなのだ。
  そのような状態で、迂闊なことなどできるはずがない。
  指示を出す側の認識の齟齬は、即作戦失敗に繋がる。
  そういう意味で、元々親交があったとはいえ、クロノとドレットノートは非常に息があっていた。
  それは、歴戦の勇士ドレットノートの積み重ねてきた戦いの歴史の結果でもあるのだろう。
  だが、そのドレットノートに不快を感じさせることもなく、同時に指示をこなすクロノも、相当に能力が高い。
 「艦長。目標点に到着しました」
 「ああ。……副長。後は頼むぞ」
 「了解しました! クロノ・ハラオウン提督! ……ご武運を」
  クロノはオペレーターに最後の指示を出すと艦長席を立ちあがり、艦長席の後ろで自らに敬礼をする副長に、敬礼を返す。
  その後、クロノが席を離れてから、おそるおそると言った様子で艦長席に座る副長。本来ならば自分が絶対に座ることのない椅子に、まだ年若い副長は恐れ多さを感じているのだろう。
  だがクロノは、彼なら自分がいなくてもクラウディアのクルーをまとめられると信じている。
 「現時点を持って、クラウディアの指揮権を一時的に私から、クラウディア副長ハリス・ブームに移行する。以後、彼の指示に従うように」
 「了解!」
  艦長席から見渡せる位置にあるブリッジから、敬礼の声が聞こえる。
  クロノはその声を背に受け、バリアジャケットを展開する。
  黒を基調とした、バトルスーツ然としたバリアジャケット。それは時空管理局武装隊の一世代ほど前の制服を多少アレンジしただけのもので、十年以上前から大きさ以外はほとんど変化していない。質実剛健。シンプルで、徹底的に機能性のみを重視した、ある意味クロノらしいバリアジャケット。
  そして同時に、クロノは黒と白のメタルプレートを懐から取り出し、デバイスを起動させる。
  一つは使い慣れた……これも一〇年以上前から変化のない、かつての管理局の官給品に多少のアレンジを加えただけのもの。もちろん中身はこまめにアップデートを繰り返しているが、基本的な性能はほとんど変わっていない。ストレージデバイス、S2U。
  もう一つは、クロノの思い出の品。師匠と呼べる人達から受け継いだ、大切なもの。クロノの装備品にしては珍しく多少の装飾はあるものの、他に比べたらやはりシンプルであることに変わりはない。アップデートを繰り返し、未だに氷結系デバイスとしては管理局でも最強クラスの能力を有する簡易型インテリジェントデバイス、デュランダル。
 「……久しぶりだな。S2U、デュランダル」
  つい、そんな言葉が漏れてしまう。
  S2Uは意志を持たないストレージデバイスであり、クロノの言葉に返礼することはない。デュランタルも簡易AIを搭載しているとはいえ、そのような会話に対応できるほどの柔軟性は持ち合わせていない。
  それが分かっていても、そんなことを呟いてしまうほど、クロノが任務で彼らを起動させるのは久しぶりのことだった。
  艦長職にもなると、前線に出ることはほとんどなくなる。だが、有事の際にはいつでも出撃できるようにしておくのが、責任者としての務め。前線に出ることはほとんどないが、そのための鍛錬は怠ったことがない。
  現にクロノには今でも、例え管理局でエースオブエースと呼ばれている義妹やその親友達にも真正面から対峙し、互角以上に戦える自身があった。
 「…………」
  提督であり、まだ二十代でありながら艦長職を兼任するクロノ。その実力は健在で、管理局でも上から数えた方が圧倒的に早い位置にいる。
  だが、提督職に従事するクロノが前線に出るということは、その必要がある事態だということ。
  その意味を噛み締めながら、クロノはブリッジの後ろ側にある転送ポートに飛び込んだ。
 「準備完了だ。作戦を決行してくれ」
 「はい。トランスポーター起動……座標指定完了。カウント十で、いつでも艦外に転送できます」
  ドレットノートとクロノという二人の提督が考え出した、クラインスペース脱出作戦。
  この空間からの脱出、あるいはこの空間を管理局でコントロールできない理由として、クラインスペースという存在そのものの特異性にある。
  クラインスペースとは、三次元空間の空間そのものを捻り、端と端を繋げ、それを固定化したものである。
  となると、理論的に考えて、この空間のウィークポイント……この空間を創造する際に、空間構造的に一番負荷がかかっている場所は、空間を捻った部分そのものである。
  ただでさえ三次元空間では存在できないクラインスペース。それを創造するにあたって一番エネルギーが必要なのは、最も空間を湾曲させる必要がある部分であり、その部分を維持することができなければ、クラインスペースはその姿を保つことができない。
  三次元空間とクラインスペースの最大曲率が一致する特異相克点。
  そこに、管理局唯一にして最大の空間破壊兵器、アルカンシェルを発射する。
  確かに今の管理局にはクラインスペースに干渉し、操作するような技術はない。だが、アルカンシェルは、指定した対象の周囲数十キロメートル範囲内を空間ごと反応消滅させる、XV級次元航行艦の主砲である。空間そのものを破壊するアルカンシェルならば、クラインスペース維持の鍵である特異相克点を直接破壊することができる。
  しかし、この作戦にも欠点がある。
  それは、この空間を維持している技術というものが管理局のそれよりも圧倒的に高度であり、更に、この空間を維持するエネルギーが、アルカンシェルの最大出力を遥かに上回っているということ。
  詳細は不明だが、この空間を維持する謎のシステムには、内側からどれだけ干渉しようとしたところで、たちどころにクラインスペースを修復できるだけの余裕があるのだ。
  クラウディア・スノーストームによる探査・計算によると、両艦のアルカンシェル最大出力を特異相克点に同時射出しても、クラインスペースを破壊することなどできず、精々が外部通常空間への空間の穴、ワームホールを造り出す程度である。それも、直径二メートル程度のワームホールを五秒間維持するのが限界なのだ。
  それが、今の次元世界を統べる管理局の限界。
  だが、それだけの大きさと時間があれば、人一人を外部空間に送り出すことくらいは可能である。
  それらのことを踏まえた上で、編み出された作戦はこうだ。
  まず、クラウディアとアルカンシェルが同時に、クラインスペースの特異相克点にアルカンシェルを発射する。直後、そこにできた小さなワームホールを足掛かりに、クロノを外部へ転送する。
  ここで大きな問題となるのは、クラインスペースの外に、何があるのか分からないということだ。クラインスペースと外部空間は完全に遮断されているため、このクラインスペースを突破した場合、宇宙空間に放り出されるのか、それとも別の場所に転送されるのか、誰にも分からないのだ。
  そのような不確定要素だらけの状態で、しかしワームホールと転送装置の都合で、各艦から一人ずつしか外に転送することができない。加えて、このような過酷な状況で単独行動ができるほどの実力を有しているのは、クラウディアとスノーストームの戦闘員の中でも、クロノくらいしかいなかったのだ。ドレットノートも歴戦の勇士と呼ばれるほどの豪傑ではあるが、それでもすでにドレットノートが老体であることに変わらない。指揮能力は未だ健在だが、そのような単独任務をこなすには体力的に不安があった。
  第一、クロノとドレットノートが二人同時にいなくなってしまったら、有事の際に誰がこの艦隊の指揮をとるのか。
 「……クロノ、準備はいいか?」
 「はい。いつ始めていただいても構いません」
  ドレットノートの確認に、クロノは静かに頷いた。
  このような単独任務をこなすのは、何年ぶりになるのだろうか。
  しかも、今までも過酷な状況というものは幾度か経験してきたが、もしかしたら今回の任務が過去最大に過酷なものになるかもしれない。
  だが、それでも、クロノがすることは変わらない。
  確実に、迅速に。
  頭は冷たく。
  心は熱く。
  常に冷静で。
  決して退かない、諦めない。
 「……カウントダウン開始。十、九、八…………」
  カウントダウンを聞きながら、クロノは心を落ち着ける。
  転送完了後、すぐにシールドを全力展開。魔力防壁、物理防壁に、いかなる環境にも適応できるようにテンプコントロールフィールドを、宇宙空間に転送された時の宇宙線対策にニュークリアキャンセラー。その管制をS2Uで。
  同時に、デュランタルの管制の元、周囲にサーチャーを散布。更に氷弾……物理魔力弾を生成、攻撃用魔法陣の展開。いかなる事態にも対応できるよう、考えられるすべての可能性を考慮し、最大限に効率的で効果的な行動を実行する。
 「……三、二、1、〇。アルカンシェル、発射!!」
  ドレットノートの指示と共に、アルカンシェル発射用の巨大魔法陣が艦体前に展開される。直後、虹色の光が放たれ、数秒の間の後、空間そのものが爆散する。
  そして、クロノの身体を襲うのは、転送時独特の、一種の酩酊感。その感覚に心僅かにも惑わすことなく、クロノは魔導式の展開を準備する。
 (……フェイト、無事でいろよ……)
  ただ、心の隅に残るのは、大切な義妹への想い。
  そして心の大部分を占めるのは、自分に課せられた使命。
  様々な思惑が絡み合う中。
  クロノは、第一九七管理外世界『ヴェルト』に、転送された。