HP開設一周年記念SSそのに。
ミッドチルダに引っ越す前日の八神家のお話。
既刊『jinior high school days』収録の『私達が出会った場所』の後日談……というかその後のお話。
もちろん、知らなくてもまったく問題はありません。








 「これで全部……かな?」
  頭にバンダナを巻き、長袖のトレーナーにジーンズ、その上からエプロン着用というラフな格好をしたはやてが、ふうとため息をつく。いわゆる、動きやすくて汚れてもいい服装だ。
  そのはやてがいるのは、住みなれた我が家の玄関前。ただしいつもと違い、そこには荷物がパンパンに詰められた段ボール箱が山積みにされている。
 「ええ…………おそらく、これですべてでしょう」
 「は〜、改めて見ると、すげー量だな」
  はやてが漏らした言葉に答えるのは、玄関前に並ぶ段ボール箱を改めて整理していたシグナム。律儀なことに、段ボール箱の山を一旦数えてからはやてに伝えている。なお、彼女はジャージを着用している。シグナムにとっての動きやすくて汚れてもいい服装といえば、近所の剣道教室で臨時講師をしていた関係からジャージと決まっていた。
  そしてその段ボール箱の山を見て感嘆の声を上げるのは、Tシャツに短パンという、この時期に切るには少し寒い格好をしているヴィータ。しかしヴィータにとっては、そのような寒さはどうということもない。長い赤毛をいつも通りおさげにまとめた頭には、はやてと同じようにバンダナを巻いている。
 「そうやね」
  そんなヴィータの感嘆の声に、はやては答える。
 「こんなに沢山、ここにはいろんなものがあったんよなぁ……」
  その声はヴィータに答えているというよりも、はやてもまたしみじみと過去を思い出して呟いている、そんな感じの声だった。
  まだ空気が少しばかり肌寒い三月。気温は日毎に暖かくなり、日差しも温かみが増してはいるが、まだ春と呼ぶには早すぎる時期。春でもなく、冬でもない、その中間の時期。季節の変遷のこの時期は、人々を取り巻く環境が変化する時期でもある。
  はやてが通っていた中学校を卒業したのは、ほんの三日前のこと。義務教育を終え、進学か、それとも就職か、という進路の選択を迫られたはやては……迷うことなく就職の道を選んだ。
  その就職先は、時空管理局。
  数ある事件世界を統括して管理する、次元世界の司法の砦。
  はやては九歳の頃からそこで魔導騎士として働き始め、すでに六年のキャリアを積み、十五歳という若さで一等陸尉という高い地位を得ている。義務教育終了後は管理局の仕事に従事する、というのはもうかなり前から決めていたことだった。
  その関係で、これまで海鳴市に住んでいたが、管理局で本格的に働きだすのに海鳴市にいたのでは色々と不都合があるので、これを機に八神一家はミッドチルダに引っ越すことにしたのだ。
  そうして引越しの作業を終え、しみじみと思うことがある。
 「こんなに、荷物があったんやな」
 「そう、ですね」
 「いつの間にか、物が増えてたんだな」
  物心ついた時には、この家には一人で住んでいた。誰とも繋がりがなく、欲しい物やしたいこともなく。自分一人で生きて、自分一人で死んでいくものだと思っていた。
  それがある日、はやては守護騎士のみんなと一緒に暮らすようになった。それ関係のトラブルや出来事で、決して多くはないが、最高の友達もできた。思い出を大切に思えるようになって、みんなと一緒にしたいことや、欲しいものが沢山できた。
  そうしてみんなと一緒に生きていくようになって、いつの間にか、この家には物が増えていた。
  引っ越しすることになって、みんなで荷物をまとめて、改めて気付いた事実。最初の頃は、生活に必要な最低限のものしかなくて、私物はすぐにでもまとめられた。それが今では、こうしていくつもの段ボール箱を積み重ねなければならないくらいに、物が増えていた。
  それはまるで、大切な人達と積み重ねてきた大切なことのようで。
  しみじみと、はやて達はその段ボール箱を見つめていた。
 「…………」
 「…………」
 「…………さて。片付けも済んだし、掃除も全部終わったな」
 「え、ああ、そうですね」
 「なら、一旦みんなで集まろうか。それから、明日まで時間を潰す方法を考えような」
 「……そうだね、はやて」
  ミッドチルダの引っ越し業者がこの荷物を引き取りに来るのは今日の夕方で、新居に住めるようになるのは明日。荷物は指定した場所に置いておけば勝手に転送してくれるので、荷物もまとめに掃除も済んだ今、明日になるまで、はやて達にはすることがない。
 「はやてちゃん、ヴィータちゃん、シグナム!」
  不意に聞こえたのは、小さな女の子の声。
  その声に反応して振り向くと、そこにはやはり小さな女の子の姿があった。
  八神家の末っ子、リインフォースU。引っ越し作業中に近所の人に見られても大丈夫なように、なによりいつもの妖精サイズでは引っ越しの手伝いができないので、今日はアウトフレームフルサイズ。ヴィータと背丈の変わらない、見た目年齢一〇歳前後の女の子の姿。服装ははやてのお下がりのトレーナーにタイトスカート、そして青い髪の毛は、はやてとお揃いのバンダナでまとめている。
 「おお、リインか。どないかしたか?」
 「どうかしてるのははやてちゃん達ですよ。どうしたんですか、そんなところでボーっとしちゃって」
 「そうやな、今日はこれからどうしようか、って考えとったんよ」
 「あー、なるほどです」
  はやての言葉に、リインが納得したように頷く。
  すでに、家の中は空っぽなのだ。ならば、明日の朝になるまで、一体なにをして過ごせばいいのだろうか。
 「みんなは、何かしたいことはあるか?」
 「いえ……特には」
 「アタシも、別にしたいことはねーなー」
 「リインも……何もないです」
 「ふむ……これは、困ったな」
  何もない家の中でゴロゴロ……しても仕方がない。どこかに遊びに行くのもいいのだが、時間的に中途半端で、あまり遠くに行くこともできない。それならば、近場で時間を潰せるところになるのだが。
 「この街には、しばらく来れんからなー」
  なにせ、海鳴の街とミッドチルダは国どころか存在する世界が違うのだ。それに、時空管理局で本格的に働くようになれば、忙しさも増す。間違いなく、気軽に海鳴の街に帰ってくることはできないだろう。
  しばらくは帰ってこれない大切な故郷。
  せっかくだから無為に過ごしたくない。そう思うのが、人情というものである。
 「んー…………あ、そうや」
 「何か思いついたですか?」
 「銭湯に行こうか」
  はやてがここで言う銭湯とは、海鳴市が誇るスーパー銭湯、海鳴スパラクーアのことである。日本人がこよなく愛する銭湯というものの娯楽性を極限まで追求したもので、数十種類にも及ぶ種類の風呂を堪能することができる、お風呂大好き日本人には堪らない場所だ。
 「それは素晴らしい意見です。是非そうしましょう」
 「……シグナム。なんつーか、こう、目がすっげーキラキラしてるぞ?」
 「……気のせいだ」
  つまり、お風呂大好きシグナムがこよなく愛する、海鳴市の娯楽施設である。
 「アハハ。シグナム、好きなら素直にそう言えばいいですのに」
 「わ、私は別に、そんなに目をキラキラなどさせていない!」
  末っ子のリインにまで指摘されて、顔を赤くして否定するシグナム。
  その慌てようが、すべてを物語っているというのに。
 「シグナム、そんなに慌てんでもええから」
 「な、主、私は慌ててなど……」
 「リイン、ヴィータ。シャマルとザフィーラ呼んできて。そんで、みんなで銭湯に行こうや」
  慌てふためくシグナムを余所に、テキパキと指示を出すはやて。
 「はい、分かったです!」
 「ふふん、銭湯か。久しぶりだな」
 「はい〜。楽しみです〜」
  そしてその指示を聞いて、実に楽しそうにシャマルとザフィーラを呼びに行った二人。
  後には、はやてとシグナムが残された。
 「……素直になればええのに」
 「あ、主はやて……」
  とりあえず、シグナムがはやてに頭が上がらないのは、いつまでも変わらないことらしい。 








 「ようこそ、海鳴スパラクーアへ。五名様ですか?」
 「はい。大人四人に、子供一人で」
 「大人……四名様ですか?」
 「アタシは大人だ」
 「あ……はい、では、こちらへどうぞ」
  ある意味いつも通りのやり取りを終え、五人は脱衣所に向かう。
  ここではリインがフルサイズなのも、ザフィーラが留守番をするのもいつものことだ。
  ただ、そのいつも通りが今日で最後なのが、少しだけ寂しくて。こうして玄関、受付から脱衣所へ向かう通路を歩くことも、なんだか感慨深かった。
 「……初めてここに来たのは、いつだっけな?」
 「……確か、六年前の冬……だったハズよ」
 「ああ、シャマルが風呂場の湯を焚き忘れた時だったな」
 「そんなことがあったですか?」
 「もう、シグナム。リインちゃんに余計なこと教えないでよ」
 「……まぁ、事実だしな」
 「シャマルのドジはいつものことだ」
 「シグナムだけじゃなくて、ヴィータちゃんまで……ひどいわ、もう」
 「あはは、でもそのおかげで、私らはここに来れたんやんか」
 「はやてちゃん……」
 「まー、確かに」
 「シャマルのドジも、たまに役にたつからな」
 「……シャマル、大丈夫ですよ? シャマルは、頑張ってるですよ?」
 「もう! 優しいのは、はやてちゃんとリインちゃんだけなんだから!」
  その通路をしみじみと歩くことなく、いつも通りのやり取りをしながら進んでいく。
  通路は対して長くなく、すぐに脱衣場に到着した。
  そして、それぞれが脱衣場のロッカーを確保し、服を脱いでいく。
 「…………」
 「…………」
 「…………どうかされましたか、主はやて?」
 「いやな、やっぱりシグナムは、ばいんばいんやなーって」
 「なっ!?」
  反射的に両手で胸元を隠すシグナム。しかし、その大きなふたつの水饅頭は、シグナムの腕では隠し切れていない。その腕の隙間から、黒い下着が見え隠れする。
  シグナムは恥ずかしいのだろう。羞恥に頬を赤く染め、はやての視線から逃れようとする。
  その仕草が余計に、はやてのマニア心……もとい、好奇心を刺激するというのに。
 「はー……。でも本当に、シグナムは胸が大きいですねー……」
 「な、主はやてだけでなく、リインまでも!?」
  その様子を傍で見ていた八神家の末娘。ため息の混じった感嘆の声を上げ、シグナムの主に胸元を見つめている。いくら家族でも、お互いの一糸まとわぬ姿をまじまじと観察する機会はない。それが、こうして銭湯に来ることで、改めて自覚したのだろう。
  シグナムのスタイルの良さと、自分の体形の差を。
 「なんや、シグナム。そんなに恥ずかしがることでもないやんか。むしろそんなに立派なものを持ってるんやから、もっと自信持ってええと思うで。文字通り、胸を張ってな」
 「いや、その、主……」
  困ったような声を上げるシグナム。
  無論我らが主は、そういう反応が返ってくることを見越して、そういうセクハラまがい……と言うより、セクハラそのものな発言しているのだ。
  シグナムは本当にスタイルが良い。
  改めて視姦……観察……見つめながら、はやてはそう思う。
 「…………」
  基本的にシグナムには余計な肉がついていない。常に身体を鍛えているからスレンダーというと語弊があるが、とにかく無駄がない。お腹はもちろんくびれているし、全身が引き締まっている。それなのに、胸は管理局でもトップクラスにばいんばいん。しかも、胸筋でしっかりとささえられているのだろう、その水饅頭が垂れることはないし、揺れるときもスライムのようにだらしなく震えたりはしない。こう、柔らかいのに、見事に弾むのだ。
 「…………」
  そして何より、その触り心地が堪らない。
  シグナムの胸は、間違いなく柔らかいのだ。それなのに、適度な弾力がある。マシュマロ、と表現するのも少し違う気がする。他のみんな、幼馴染達や部下の女の子達とはまた違った感触。一切の無駄がない。言うなればそれは、鍛え上げられた水饅頭。柔らかさと弾力の絶妙なバランス。形も良いから見ていても飽きない。これは正に、人類の希望の完成形のひとつの在り方だと言っても過言ではないと、はやては思う。
 「…………」
 「…………あの、主はやて、そんな視線で見つめられると……私も、恥ずかしいのですが」
 「…………あー、そうやな。シグナムのおっぱいがあんまり良いもんやから、つい見つめてしまったわ」
 「主はやて、またそのようなことを…………」
  悲しいかな、シグナムは恥ずかしがり屋なので、こうして見つめているとまず服を脱いでくれない。シグナムらしい黒い下着の上から、丁寧に包装された水饅頭を見つめるもの悪くはないのだが、はやてはやはり直接見て触るのが好きだった。
 「シグナム、羨ましいです……」
  はやての横でシグナムのことを見つめていたリインが、ポツリと漏らした言葉。そこには、幼い女の子の羨望が混じっていた。
  リインは印象年齢が幼い少女であるため、当然ではあるが身体は成長していない少女のもの……というか、いわゆるツルペタ体型である。身体にはシグナムのような凹凸はなく、起伏も少ない。肌がとても白く、空色の髪もまるで流れる風のようにサラサラしているので、むしろお人形さんに見えるくらいだ。一部には需要があるのだろうが、少なくともここは女湯であり、その手の人間はいないハズである。
 「リインは、シグナムみたいになりたいんか?」
 「はいです。シグナムみたいな、スタイルの良い身体に憧れますです」
 「リイン……」
  リインの声に混じるのは、シグナムへの憧れと、諦めの感情。
  リインは人間ではない。感情こそ人間のそれと遜色ないが、プログラムで構成された身体が変化することはない。だから、年月と共に精神的に成長しても、肉体はいつまでも幼い少女のままなのだ。
  悲しいことに、リインの願望が叶うことはない。
  はやてがちょっとデータを弄れば一時的に成長することはできるが、それはあくまでも仮初めの姿。何か大きな出来事でもない限り、リインは永遠の幼女なのである。
 「リイン……こっちおいで」
 「はやて、ちゃん?」
  はやての言葉に首を傾げるも、リインは服を脱いだまま、トテトテとはやての元に近づく。
  そんなリインのことを、小さな八神家の末娘を、はやては優しく抱きしめた。
 「……リインもきっと、シグナムみたいに成長できる。見た目はまだちっちゃいけど、中身は立派なお姉さんになれるよ」
 「…………ありがとうです、はやてちゃん」
 「リイン、気にするな」
 「ヴィータちゃん?」
 「あんなおっぱい魔人のでかパイなんて、戦いでは邪魔なだけだ。アタシ達は騎士なんだ。なら、無駄なく動くなら、アタシ達くらいで丁度いーんだよ」
  はやての言葉に、ヴィータも言葉を続け、胸を張る。
  しかし、そうは言うが、ヴィータもリインに負けず劣らずの幼児体型なのだ。ヴィータの身体もシグナムと同じように鍛えられてはいるが、シグナムのように女性らしい体つきはしていない。
  言っていることはまともっぽいが、それをヴィータが言っても、負け惜しみにしか聞こえないのはなぜなのだろうか。
 「ヴィータ。誰がおっぱい魔人だ」
 「? お前以外に誰がいるんだ?」
 「……ほう、いい度胸だ。褒美に、レヴァンティンの錆にしてやろう」
 「ハッ! そっちこそ、グラーフアイゼンの頑固な汚れにしてやろうか!」
 「はいはい、ヴィータちゃんも、シグナムも、こんなところで喧嘩しないの」
  服を脱いでも手放すことのない相棒を起動しようとする二人の仲裁に入るシャマル。
  すでに一糸まとわぬ姿のシャマルを、身構えたままの二人が見つめる。
 「……ど、どうしたの?」
 「…………いや」
 「シャマル、太った?」
 「な、なんですって!?」
  シャマルの印象年齢はシグナムよりも高いが、実際にはそうは変わらない。しかし、シャマルはシグナムのような前衛ではなく、有効な攻撃手段を持たない完全な後衛担当であり、そもそも最近は戦闘に出ることもない。後方支援が専門なのだ。
  そのため、シグナムのように身体を鍛える必要もなく、そして他のみんなほど身体を動かすこともない。そして、他のみんなよりもお菓子が好きで、間食も多い。
  その、僅かな身体の変化を、鋭い眼力を持つ二人が見抜いたのだ。
 「ど、どこが太ったって言うのよ!」
 「いや、お腹周りが、前よりもいい肉付きだなーって」
 「シャマル、現実を見つめることも大切だぞ」
 「もう、なによ二人とも! はやてちゃん、リインちゃん。そんなことないですよね?」
  いきなり話を振られ、はやてもリインもその場で固まる。
  それから、数秒間の間を置き……心なしか申し訳なさそうに、二人は口を開いた。
 「……ごめんな、シャマル」
 「否定、できないです。ごめんなさいです」
  シャマルに謝る二人。
  だがこの場合、ストレートに否定されるよりも謝られることの方が辛かったりする。
  案の定シャマルは厳しい現実に打ちのめされ、その場にへたり込む。
 「そんな……。二人だけじゃなく、はやてちゃんにリインちゃんまで……!」
 「て言うかそんなことはどうでもいいから、さっさと風呂に入ろうぜ」
 「そうだな。身体が冷えてしまう」
  しかし、床にへたり込むシャマルを放置して、ヴィータとシグナムは湯船に向かう。
 「シャマルもいつまでもへこんどらんで、さっさとお風呂に行くで?」
 「シャマル、先にお風呂で待ってるですよ」
  そしてはやてとリインの二人も、先に湯船に向かうことにした。
  何故ならこの太った太らないのやりとりもいつものことで、もう幾度となく繰り返してきた行為だ。シャマルはそれなりにへこんでいるようだが、どうせすぐに復活する。それに、言うほど本人は気にしていない。だから、特別フォローする必要もないのだ。
  故にはやてとリインですら、シャマルのことを放置して。
  脱衣場には、すっぽんぽんのシャマルだけが取り残された。
 「あ……ちょ、ちょっともう、みんな待ってよー!」
  そのことに気付き、慌てて湯船に向かうシャマル。
  これもまた、八神家のいつもの日常だ。








  先に湯船に向かった四人は、脱衣場と浴室を区切る入口の前でシャマルのことを待っていた。
  なんだかんだで、八神家のみんなは優しかった。
  そうしてシャマルが合流してから、改めて湯船に向かう。
 「みんな。この私らが何度も親しんだ海鳴スパラクーアに来るんも、今日で終わりや。もしかしたら里帰りかなんかでまた来ることがあるかもしれんけど……多分、あと数年はここに来ることはない。つまり、今日が入り納めや」
  その場で、家族達に演説のような主張をするはやて。
  真面目半分ふざけ半分のその演説を……ヴィータとシャマルは軽く聞き流し、リインは生真面目で純粋な性格だからか熱心に聞き入り……そして、何故だかシグナムが一番真面目に聞いていた。
 「せやからみんな。今日は、後で後悔しないように、思いっきり楽しもうか」
 「無論です。本日は、全力で風呂を楽しみましょう」
  はやての半ばふざけた演説に、シグナムは全力で同意した。
  その姿を見て、シグナムを除く八神家一同は苦笑いをした。
 「……なんだその眼は。何か言いたいことがあるのか?」
 「……別に」
 「……特に、なにも」
 「……まぁ、シグナムだし」
 「シグナムのお風呂好きは、今に始まったことやないしなー」
  はやてもお風呂は好きだが、シグナムほどではない。
  と言うよりも、シグナムのお風呂好きがすごいのだ。
  普段は冷静で落ち着いているシグナムが、ことお風呂の話題になると目の色を変える。本人は至って平然を装っているのだが、他の人達、特に親しい間柄の人間にはばればれだ。
  いつも通りを演じて……その実、心の中ではとても喜んでいる。
  そんなシグナムのことが、はやてにはなんだか微笑ましかった。
 「……何か、釈然としないものがあるな」
 「あははは。ほら、シグナム。そんなことよりも、早くお風呂に入ろうよ。でないと、風邪ひいてまうで」
 「……そうですね、主はやて。何か引っかかりますが、主に身体を冷やさせるわけにもいきません」
 「せやで。主の身体を無意味に冷やしたらあかん。ほら、みんなも」
  はやての言葉に促され、八神家一同は湯船に向かう……前に、きちんと身体を洗うことを忘れない。
  これは、大衆浴場に入るときのマナーのようなものだ。
  湯船に浸かる前に身体を洗う。タオルは湯船に浸けない。お風呂場では騒がない、走らない。湯船では泳がない、等々。
  それは当たり前のルールのようなもので、それが当たり前になっていることが素晴らしいことだとはやては思う。それはきっと、ここに来るみんながお風呂が好きだから。シグナムほどではないにしても、はやて達もこうやってお風呂に入ることは大好きで、だからこそ、そのお風呂を汚すようなことはしない。
  だから、まずきちんと身体を洗ってから、改めて湯船に浸かる。今日は平日で、それもまだ比較的早い時間だからか、はやて達以外の客はほとんどいない。おかげで、みんなで一緒に、のびのびと同じ湯船に浸かることができた。
  はやて達が最初に入ったのは古き良き銭湯チックな湯船で、数十種類があるここ海鳴スパラクーアの湯船の中でも一番シンプルな造りをしていて、そして一番大きな湯船である。
  それなのに、他にほとんど客がいないため、実質的に八神家の貸し切り状態だった。
 「……は〜。堪らんな〜。何かこう、このために生きてるって感じがするわ〜」
 「はやて、それは大袈裟すぎ」
 「しかも、すごくオヤジ臭いです」
 「ふふん。この大浴槽の良さが分からんとは。リインもヴィータも、まだまだ子供やな」
 「…………やっはり風呂は良いな。このために生きてるって感じがする」
 「あ、リインもそんな気がするですよ」
  子供が背伸びをして大人ぶるのは、どうしてこう可愛らしくて微笑ましいのか。
  とても気持ち良いお風呂のせいと、可愛らしい妹達のせいで、はやての顔が自然と緩む。
 「嗚呼…………やはり、風呂は素晴らしい。人間が作り出した文化の極みだな」
 「シグナム、あなたも頭のネジが緩んでるんじゃないの?」
 「……かもしれんな。だが、それもまだ一興。どうせ裸なんだ。取り繕う必要もない。それに、緊急連絡が入るような仕事もない。それならば、全力で身体を休めるべきだ」
  さきほどかなり苛められたので、いつもよりも辛辣な言葉をかけるシャマル。
  だがそれ以上に、大きな浴槽に浸かったシグナムの機嫌が良かった。いつもならもう少し反応するのだが、今回はシャマルの皮肉を完全に受け流していた。
  そのことが面白くないのか、シャマルは可愛らしく頬を膨らませる。
  そして、その光景が面白くて、楽しくて、はやてはまた微笑んだ。
 「……はやてちゃん、どうかしたですか?」
 「んん……いや、何でもないよ」
  不思議そうに首を傾げるリインの仕草を見て、はやてはまた笑った。
  まったく。みんなといると、退屈することがない。
  例えどこにいようと、みんなと一緒なら、私は大丈夫だ。
 「……さて。適当に温まったら、次のお風呂に行こうか」
 「そうですね。今日が入り納めですから、すべての風呂に入りましょう」
  いつもはあまり自己主張をしたり、自分の意見を通そうとはしないシグナムが、今日はいやに饒舌だ。本人に自覚はないのだろうが。案の定、早々と立ち上がって次の湯船に向かう準備をしている。
 「……まったく、シグナムにも困ったもんだ」
 「まぁ、シグナムが人が変わるくらい好きなのってお風呂ぐらいだし、たまにはいいじゃないの」
  ああだこうだと言いながら、他の家族達も立ち上がった。
 「さて、次はどこに行こうか?」
 「リインはあそこがいいです! ほら、紅茶風呂ってあるじゃないですか」
  ピョンピョンと飛び跳ねんばかりの勢いでリインが主張するのは、琥珀色のお湯から紅茶の香りがするお風呂。一体どういう仕組みでそのお風呂を作ったのか、はやては前から疑問に思っている。まさか本当に淹れた紅茶をお湯の代わりに湯船にはったわけではあるまいし。入浴剤にしても、あれは面白いものだ。
 「アタシは泡風呂がいいな。面白いし」
  ヴィータが言うのは、お湯に大量の泡が浮かんでいる湯船のことだ。洋画に出てくるホテルのお風呂、と表現すれば通じやすいだろうか。泡が噴出する湯船ではなく、大量の泡がお湯に浮かんでいて、まるで泡の中に入っているような気分になる。
 「私は、柚子湯がいいなー」
  柚子湯とは、その名の通りお風呂に柚子をそのまま入れたお風呂である。子供が触っても大丈夫なように、中ぐらいの柚子が何個か網の中に入ってそのままお湯に浮かべられており、柚子を触って楽しむこともできる。柚子の良い香りで、身体の芯まで温まるような気分になれるのだ。
 「む……。全員が、主張が違うのか……」
 「まぁまぁ、シグナム。どうせ全部のお風呂に入るんやし、そんなに残念がらんでも大丈夫やって」
 「主はやて、私はそのような顔はしていません」
 「さーて、どうなんやろうねー」
  シグナムの抗議めいた声を茶化して、はやてはまた笑う。
 「じゃあ……まずは、ここから一番近い紅茶風呂に向かおうか。もちろん、みんなの入りたいお風呂にも」
  そうして、八神家一同のお風呂めぐりが始まった。




               ※




 「……今日は、満月なんやな」
  湯船に浸かったまま、夜天の空を仰いで、はやてが呟く。
 「……そのようですね」
 「月だけじゃなくて、星も見えますよ」
 「ああ……。これは、絶好の露天風呂日和やな」
  お風呂の締めは露天風呂。
  暗黙の了承……というほど大げさなものではないが、それは八神家の不文律になっていた。
  なんとなく、他のお風呂と露天風呂は根本から違う気がするのだ。野外にあって、外の景色を眺めることができるから、なのだろうか。それとも、別の理由があるのか。自分達のことなのに、その答えを出せる者は、八神家にはいなかった。
  何にしても、家族でここに来た時は最後に露天風呂に入ること。今日は幸いなことに、他の客はほとんどいない。そのため、この露天風呂も、実質的に貸切状態だった。
  遠慮することなく足を伸ばし、全身の力を抜いて、夜天の空を仰ぐ。
  言ってしまえばたったのそれだけのことが、どうしてこんなにも気持ちいいのだろうか。
  頭にタオルを乗せ、空を仰ぎながら、はやては考える。
  それなのに。考えはまとまらず、それどころかどんどんと取り留めがなくなっていく。
  ぼんやりとした頭の中で思いだすのは、初めて海鳴スパラクーアに訪れたときのこと。
  初めてここに訪れたのは、シャマルのドジからだった。シャマルがお風呂を焚き忘れていて、それでたまたまチラシにあった新装開店の文字につられてやってきたのだ。
  不思議なものだ。あの時は何気ない気持ちで訪れたのに……いつの間にか、ここも思い出の場所になっているのだから。
  家族との思い出が詰まった、大切な場所。
 「…………あかんなぁ」
  頭にタオルを乗せたまま、空を仰ぐ瞳を、はやては右手で覆い隠した。三月の夜風はまだまだ冷たく、熱くなった右手が冷やされてそれはそれで気持ちいい。視界が封じられて、その風を、やたらと鮮明に感じていた。
  感傷なんてもの、ここでは必要ないのに。
 「…………」
  だけど。
  ここは、お風呂に入る場所。裸の付き合いをする場所だ。
  権力は衣の上から着るものだ……なんて、一体どこの誰が言ったのだろうか。
  そんな場所で取り繕う必要も、ないのかもしれない。
 「…………なぁ、みんな」
  瞳を右手で覆い隠したまま、はやては呟いた。大切な家族のみんなに聞いてほしいことがあるのに、あまり聞かれたくない。だから、この声が聞こえないなら聞こえないで構わない。だからはやては、聞こえなくてもいいように、小さな声でそう呟いた。
  それなのに。
 「なんですか、はやてちゃん?」
 「はやて、どうかしたのか?」
 「はやてちゃん、呼びましたか?」
 「主はやて。どうかしましたか?」
 「…………」
  ああ。
  どうしてこの家族達は、こうも私の声に敏感なのか。
  聞こえなくてもいいように小さな声で呟いたというのに、きっちりと聞こえてしまっている。
  まぁ、それならそれで構わない。
  権力も、威厳も、服の上から着るものだ。
  だから、こうして一緒に露天風呂に浸かっている今、取り繕う必要もない。
 「……………………ありがとうな」
  だからはやては、たったの一言、言葉を紡ぐ。
  ありとあらゆる意味を込めて、たったの一言。
  だけど私の家族達は、とても優秀で、聡いから。
  こんな一言で、言いたいことをすべて、感じ取ってくれるのだ。
 「それはむしろ、私達が言うべきことです」
 「私達に居場所をくれたのはあなた。幸せをくれたのもあなた」
 「私達が今の私達でいられることはすっげー幸せなことで、その幸せをくれたのは、間違いなくはやてなんだ」
 「だから私からも……私達からも言わせてください。ありがとう、はやてちゃん」
 「…………そうやな。それなら、みんながみんな、お互いにありがとうってことで」
  今の私が私でいられるのはみんなのおかげで、今のみんながみんなでいられるのは私のおかげで。
  お互いに感謝してもしきれない。
  …………可笑しいな。
  感傷なんて必要ないと思っていたのに。
  どうして……こんな気持ちになるのだろう。
 「私達がいるですよ、はやてちゃん」
  そのはやての心を見透かしたかのように、リインの声が聞こえた。
 「そうだよ、はやて。私達がいる」
 「どんな時でも、どんな場所でも、私達はずっと一緒です」
 「寂しいのなら……私達が、いつでも一緒にいます。あなたが、そうしてくれたように」
 「…………じゃあみんな、ずっと私と一緒にいることになるな」
 「何をいまさらだよ、はやて」
 「そうです。私達は、いつもいつまでも、一緒です」
 「私達はあなたの守護騎士。あなたが望む限り、ずっと共に過ごします」
 「ずっとずっとずーっと、私達は家族で、ずっと一緒にいるですよ」
  そうだよね。
  例えどんな場所でも、どんな時でも何が起ころうとも。
  家族が一緒なら、何も怖くないし、寂しくない。
  だってそれが、家族ということだから。
 「我ら、夜天の主の下に集いし騎士」
 「主ある限り、我らの魂尽きることなし」
 「この身に命ある限り、我らは御身の下にあり」
 「我らの主、夜天の王・八神はやての名の下に」
  それは、守護騎士の名乗り口上。
  主ある限り仕え続けるという誓いの言葉。
  つまりは、そういうことなのだ。
 「……みんな。ずっと、一緒にいような」
  だからはやては、小さな声でそう呟いて、みんなが頷いたのを確認してから
 「……さて、湿っぽいのはここまでや。もうちょっと、ここでゆっくりしていこうか」
 「はい。仰せのままに」
 「……まー、シグナムだしな」
 「シグナムだしね」
 「シグナムですねー」
 「……ちょっと待て。お前ら、何が言いたい?」
 「……別に」
 「いいじゃない、別に」
 「そうですよー」
 「貴様ら……」
 「はいはい。みんな、喧嘩せんの」
  だけど私達には、湿っぽいのは似合わない。
  だから最後は、こうしていつも通りの私達に戻って。
  明日からは、また新しい私達が始まる。
  私達が一緒なら、毎日が新しくて、新鮮で。
  そんな毎日が楽しくて――すごく、幸せです。