聖王教会、騎士団長室。
名前の通り、聖王教会の所有する独自戦力『聖王騎士団』の団長に与えられた個室であり、騎士団長はこの部屋で執務や雑務をこなすことになっている。
その部屋の中央より少し奥、執務用の机に、この部屋の主であり、現聖王教会騎士団長のカリム・グラシアが腰掛けていた。職務中なのか、机に山積みにされた書類を、一枚一枚チェックしている。
あの事件……聖王教会第一訓練場閉鎖事件から、三日が過ぎていた。
「…………ふぅ…………」
書類に目を通しながら……不意に、カリムはため息を吐き、書類から視線を外した。
「未だに手がかりなし、ですか……」
誰に言うでもなく、一人ごちる。
カリムが目を通している書類は、例の事件に関する報告書である。
例の事件。一部の関係者の間では『聖王信仰紛争』と呼ばれている事件。現代に復活した幼い聖王陛下を狙う、狂信者達が巻き起こす事件。その事件の中心人物は聖王教会上層部に関わる人物とされ、すでに数名の聖王教会騎士団所属の騎士が、この事件に関わっていることが確認されている。
一番初めの事件発生から、約半月。
聖王教会の不祥事の塊とも言えるこの事件が一般に発覚することを、聖王教会上層部は好ましく思っていないが、事件の規模や重要性から、すでに隠蔽することは不可能となってしまっている。そのため、聖王教会上層部はこの事件の解決に躍起になっているが、現状では手がかりは一切ない。
なぜなら、事件に関係していた聖王教会の騎士は、一人の例外なく、事件の内容を供述する前に自害しているのだから。
この件もまた、聖王教会の不祥事である。
だが、カリムにとって、この事件によって聖王教会の名誉が傷つけられることなど、半ばどうでもよかった。
カリムが憂うのは、友がこの事件に巻き込まれていることだった。
一部ですでに『聖王信仰紛争』と呼ばれているこの事件を語るのに、絶対に外せない人物がいる。
高町ヴィヴィオ。
聖王教会の管理するミッションスクール、ザンクト・ヒルデ魔法学院の初等部三年生。『聖王の印』であるオッドアイの瞳に加え、聖王と同じ虹色の魔力光、カイゼル・ファルベを持ち、時空管理局無限書庫の司書の資格すら有する、本人曰く『ちょっと読書が好きなだけの普通の女の子』
彼女の正体は、すでに途絶えた血筋である本物の聖王陛下のクローン体であり、そして、カリムの個人的な友でもある。ヴィヴィオが存在したからこそこの事件が起こったわけだが、彼女がいなければ個々の事件は解決しなかっただろう。それほどまでに、この事件と高町ヴィヴィオは密接に関係していた。
そんな彼女がこの事件に巻き込まれていることに、カリムは心を痛めていた。
いくら現代に蘇った聖王陛下とは言え、ヴィヴィオはまだ九歳の女の子なのだ。本人も普通の女の子として生きていくことを望んでいたのに、自分達の身内、聖王教会の関係者、それも狂信者とも呼べる人達がこの事件を起こし、ヴィヴィオやその周りの人を巻き込んでいる。ヴィヴィオにとっては、とんだとばっちりだ。そもそも、ヴィヴィオの正体を知る者はヴィヴィオと親しい人間か元機動六課のメンバー、そして聖王教会の上層部の一部に限られるのだ。どう考えても、この事件は聖王教会上層部が発端となった事件である。
私達のせいで、彼女の人生を狂わせてしまったのではないのか。
カリムは今でも、そう思うことがある。
この事件さえなければ、ヴィヴィオは今頃普通の女の子と同じように夏休みを満喫していただろう。なのに、実際にはどうだ。毎日を全力の修練に費やし、すでに数度、命に関わるほどの戦闘を経験している。つい三日前だって、肉体の限界を突破するまで魔力を行使し、その影響でしばらくの間身体を動かすことすらできなくなってしまったのだ。ますます危険になっていくこの事件に関わり続けていては、いつか本気で取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。
そのことを、カリムは心配し、嘆いていた。
このようなことは、大人の私達が解決するべきなのに。
子供達には何の心配も憂いもなく、毎日を過ごして欲しいのに。
それすらできないで、なにが聖王教会騎士団長だ。
子供達を苦しめるために、聖王教会騎士団は存在するわけではないのに――
「失礼します、騎士カリム」
カリムの思考は、ドアのノックの音によって遮られた。
「ああ、オットーね。入っていいわよ」
「失礼します」
丁寧で落ち着いた声と共に、お盆を持った執事姿のオットーが扉を開け、部屋に入ってきた。
時計を見てみると、すでにお茶の時間になっていた。どうやら考え込みすぎて、思っていたよりも時間が過ぎてしまっていたようだ。
「今日のお茶は少し趣向を変えてみました」
「……と言うと?」
「産地が違うんです。なんでも、ミルクのような香りがするのだとか」
「へぇ。楽しみね」
カリムの言葉にオットーが微笑み、オットーが持ってきたお盆が机の上に置かれる。お盆の上にはティーセットの他にも、こんがりと美味しそうに焼けたクッキーがあった。
「あら、美味しそうなクッキーね」
「はい。先日のクッキーパーティーで僕が作ったものです。お口にあえばいいのですが……」
聖王教会では時々、地域や信者の人達を対象にしたイベントが行われることがある。クッキーパーティーもそのイベントのひとつで、主に女性やお年寄りの参加率が高い。何でも、美味しいクッキーを焼くことを生きがいにしている老人信者もいるそうで。
「オットーが作ったんですもの。美味しいに決まっているわ」
「ありがとうございます、騎士カリム」
微笑むオットーを見て、カリムは思う。
こういう行事こそ。人々を導き、日々の安寧を与えることこそ、聖王教会の存在意義ではないのか。
信仰というのは、あくまでもそのための一手段に過ぎない。
人々のよりよい毎日のために、聖王教会は在る。
人々を悲しみから救うために、聖王教会騎士団は在る。
一度は闇に落ちてしまった人を、再び光の世界に戻すために、聖王教会は在る。
人々の生活を守るために、聖王教会騎士団は在る。
断じて、子供達を苦しめるために私達は存在しているのではない。
人々を救い、導くために、聖王教会というものは存在しているのだ。
「……私達大人が、頑張らないといけませんね」
「……何か仰いましたか、騎士カリム?」
「いいえ、なにも」
「はぁ……」
一刻も早く、この事件を解決しなければならない。
一刻も早く、友を苦しめる原因を取り除かなければならない。
それが、聖王教会騎士団長である、私の役割がすべきことであるのだから。
※
エリーゼ・ダイムラー。十二歳。ザンクト・ヒルデ魔法学院初等科五年生。
聖王教会の上層部の一角を担うダイムラー家の現当主ロールス・ダイムラーの第一子で、ダイムラー家の次期党首筆頭候補。能力的に優れ、また、ダイムラー家当主の条件である固有スキル『聖王の従者』を現当主以外では唯一使用することができるため、次の当主になることはほぼ確定している。
聖王一族の正統な血縁が途絶えた現在で、聖王の血を受け継ぐ数少ない人物の一人。故に現在の信仰の対象とされており、本人もそれに応えることを、自身が聖王を受け継いでいることを誇りに思っている。
ダイムラー家は、元々が聖王一族の遠縁の出で、聖王の従者を代々務める家柄だった。
聖王の従者という立場、『聖王の従者』という聖王の魔法、そしてなにより代々受け継がれる誇り高さ、高潔さを評され、『聖騎士』の屋号を聖王直々に与えられ、現在でも『聖騎士』と呼ばれている。
固有スキル『聖王の従者』とは、遠縁とは言え聖王一族に繋がるダイムラー家が受け継いだ唯一の聖王の魔法。ヴァルキューレ、と呼ばれる金属で出来た傀儡兵を召喚し、使役する能力。召喚するヴァルキューレの数及び強さは術者の任意で調整できるが、数が増したり、個体の錬度が上がれば当然消費する魔力量や術者にかかる負担も大きくなる。現時点でのエリーゼの最大召喚数は七体、最高の材質はミスリル銀。召喚数と錬度を両立する場合は五体が限界。
使用デバイスは十字槍型のアームドデバイス『ファーフニル』
ザンクト・ヒルデ魔法学院では初等部生徒会長を務め、本人は秘密にしているつもりだが、カリム・グラシア様に祈る会の名誉会員でもある。
推定魔導師ランク・空戦AAA。
アリカ・フィアット。九歳。ザンクト・ヒルデ魔法学院初等科三年生。
かつて聖王教会上層部の一角を担っていたフィアット家の末裔。フィアット家はダイムラー家と同じ聖王の遠縁の一族で、かつては聖王の従者の家系であった。アリカの血筋は厳密には分家筋にあたるが、正当なフィアット家の血筋は完全に断絶し、フィアットの血を受け継ぐものはアリカしか残っていない。故に現在でのフィアット家の正統な後継者はアリカであるのだが、本人にフィアット家を再興させようという意思はない。廃業してからすでに数十年が過ぎているため、聖王教会の上層部関係者でもフィアット家の存在を知らない者は少なくない。
両親共に聖王教会の騎士であり、特に母親であったミラージュ・フィアットは『聖魔導師』と呼ばれるほどの高位の魔導師だった。『聖魔導師』とは本来はフィアット家に与えられた屋号だが、正当なフィアット家を継ぐ者がおらず、フィアット家の名声・権威が完全に失われ、忘れ去られた今では、ミラージュ・フィアットの『聖魔導師』は最強クラスの魔導師に与えられるふたつ名に過ぎない。
聖王一族の正統な血縁が途絶えた現在で、聖王の血を受け継ぐ数少ない人物の一人。しかし、フィアット家がすでに完全に断絶してしまっているので、正式には信仰の対象にはならない。
左右で色の違う瞳『聖王の印』を所有。そのため、聖王関係者かと疑われることもあるが、面倒事を避けるためか、それとも本人も知らないのか定かではないが、アリカ本人は聖王関係者であることを否定している。
両親とはすでに死別。父親はアリカが物心つく前に、そして母親も二年前に聖王騎士団の任務中に事故で亡くなった。母親っ子だったアリカにとって、ミラージュを失ってしまったことはかなりのショックだったらしく、聖王教徒でありながら神を否定するほどに落ち込んでいたが、高町ヴィヴィオと出会い、言葉を交わすことで立ち直り、現在は人並みの生活を送っている。
現在は父方の親戚であるハルトマン家の祖父母の下で暮らしている。なお、フィアットは母方の姓であり、アリカの生まれてすぐの頃は父方の性であるハルトマンを名乗っていたが、父親が死んだ時に姓が母方のものに変わった。
推定魔導師ランク・陸戦E(魔法適正無し?)
次元管理局、無限書庫。
次元世界に散らばる無限の本を全て蒐集し、蒐集し過ぎて本の所在がまったく分からなくなってしまった本の海。
そして、無限書庫の司書資格を持つ高町ヴィヴィオにとって、そこは無限に広がる庭のようなものでもある。
「うーん……」
ヴィヴィオはその無限書庫の無重力に揺られながら、数枚の書類を手に唸っていた。その書類に書かれているのは、エリーゼ・ダイムラーとアリカ・フィアットの個人情報。そしてそれに加えて、ヴィヴィオのまだ知らない人達の個人情報。聖王の正統な血族が失われた現代において、聖王の血を受け継ぐ数少ない人物たち――この事件で、これから襲われる可能性のある人達――の個人情報が書き込まれた書類だ。
一部の関係者が『聖王信仰紛争』と呼ぶこの事件の中心人物であるヴィヴィオが、カリムに頼んで調べて貰ったものだ。
今までは犯人達の動きがあってそれに対抗する形でしか動くことができず、対応も後手後手に回っていた。
しかし、この事件を解決するためには、これからは先手を打たないといけない。だからこそ、ヴィヴィオは現在に残る聖王関係者のことを調べていた。襲われる人を予測することができれば、対策を取り、相手側の襲撃に備えることができる。これ以上、巻き込まれる人を少なくすることができるのだから。
「頑張らないと……」
呟き、一回深呼吸。頭に新鮮な空気を送り込んで、停滞しかかっていた思考を再び活性化させる。そして、手に持つ書類に目を通しながら、ヴィヴィオの周囲を漂う分厚い本の内の一冊を取り、書類と読み比べる。
ただ漠然と聖王関係者のパーソナルデータを調べたところで、次のターゲットの予測にはならない。どういう理由で襲われているのか、ということを考え、そしてその理由に合致する人物を割り出さなければならない。
今回の犯人は、おそらく聖王の狂信者だ。最大の目標は、当然ヴィヴィオ。聖王陛下本人である。それならば、現代において聖王に近しい人間が、第二のターゲットになるのではないか。ヴィヴィオ達はそう考えた。
そこで、ヴィヴィオは過去の資料と照らし合わせながら、現代において聖王を受け継ぐ人達がどれだけ聖王に近しいのかを調べることにした。幸いなことに、現代において聖王を受け継ぐ人達というのはほとんど例外なく聖王教会の上層を担うか、そうでなくても聖王時代から続く名家であるため、資料探しは思ったほど難航しなかった。そういう名家の初代とは、大抵古代ベルカの歴史に関わっているのである。その辺の調べ物は、ヴィヴィオにとってはお手の物だ。古代ベルカの歴史に関わることなので、セインやオットー、ディードといったナンバース組、場合によってはルーテシアやアギトに協力を要請することもできる。後は、聖王との関連性をピックアップし、比較すればよい。
「ヴィヴィオ」
資料を読み進めるヴィヴィオの後ろから、声をかける人物。
ヴィヴィオは資料から手を離さず、首だけ後ろに向けてその人物を確認した。
「エリーゼさん」
「これが、エリーゼ家とフィアット家に関する資料ですわ。……最も、私はこういった探査魔法が苦手ですので、あなたほど有用な資料を探せたとは思えないのですけど」
少し不安げにそう言いながら、エリーゼはヴィヴィオに古い文献を三冊渡した。
ヴィヴィオは改めてエリーゼに向き直ると、手にしていた資料を一旦置き、エリーゼが手渡した資料のうちの一冊をパラパラと捲った。
「…………いえ。十分ですよ、エリーゼさん。多分これ、私がエリーゼ家について検索したときにも、お世話になる本だと思いますよ」
「……そうですか」
ヴィヴィオの言葉に、ホッと胸を撫で下ろすエリーゼ。おそらく、本当にこういった魔法が苦手なのだろう。
落ち着いているようで、意外と感情が表にでてくるのがエリーゼなのだ。
「ヴィヴィオー」
ヴィヴィオのことを呼ぶ声が、もうひとつ聞こえた。
その声の聞こえてきた方向に、ヴィヴィオとエリーゼが同時に視線を向ける。
「アリカちゃん」
「言われた資料、ちゃんと元の場所に帰してきたよー」
「うん。ありがとう、アリカちゃん」
「ううん。私には、このくらいのことしかできないから」
首を横にふるアリカ。
「そんなことないよ。私はまだ身体が上手く動かせないから、十分助かるよ」
三日前の訓練場封鎖事件。
その事件の解決と引き換えにヴィヴィオは魔力の限界を突破、その反動で魔力を一時的に失い、身体もほとんど動かせなくなってしまった。三日が過ぎた今では魔力もある程度は回復したが、それでも通常時の半分程度しかなく、身体の節々も動かすたびに軋む。早い話が、重度の筋肉痛のようなものだ。
そんな身体では、通いなれた無限書庫とはいえ、満足な調べ物ができない。
そこでヴィヴィオは、友人であるアリカとエリーゼに協力を要請した。検索能力そのものに関しては無限書庫の正式な司書であるヴィヴィオに比べるべくもないが、それでも一人で調べるよりはよっぽど効率が良い。
作業分担として、ヴィヴィオは総合的に過去の資料検索とパーソナルデータの照らし合わせをし、エリーゼは一般開放区域に限定しての資料検索、そしてアリカは資料の片づけやその他雑用、といった具合である。
この無限に広がる無限書庫においては、資料を元の場所に戻すだけでも一苦労だ。魔法もろくに使えない今のヴィヴィオでは、それをやってくれるだけでもかなりの助けになる。
「ヴィヴィオも、ですか」
「あはは、エリーゼさんもまだ調子が戻らないんですか?」
「ええ。不本意ながら」
どうやら、エリーゼの身体も完全には回復していないらしい。
もし、今ヴィヴィオ達が襲われてしまったらほとんど抵抗できずに捕まってしまうが、時空管理局から聖王教会のカリムの家までは転送ポートひとつで移動できるため、危険はほとんどない。
次元の海と陸の守護の要である時空管理局本局。聖王教会騎士団長であるカリム・グラシアの邸宅。この二か所で騒ぎを起こそうとする人物がいるとしたら、それはよほどの馬鹿か、無知か。あるいは歴史に名を残す大物だろう。
「……それにしても、驚きましたわ」
「? 何がですか?」
「?」
「フィアットさんの家柄のことです」
「ああ、なるほど」
カリムに頼んで調べて貰った、現代において聖王を受け継ぐ者、の資料の中に含まれていたアリカの資料。
それは、フィアット家が聖王の血を受け継ぎ、かつては聖王教会の上層部の一角を担っていたというもの、そして現在ではフィアット家は断絶し、アリカしか残っていないというものだった。
「私も、ダイムラー家の次期当主として、現在で聖王の血を受け継ぐ一族のことを大体は知っているつもりでしたが、フィアット家のことは知りませんでしたわ」
心底驚いた、といった様子のエリーゼ。
彼女にとっては、自分の知らない聖王を受け継ぐ一族の存在が予想外のものだったのだろう。
なぜなら現代において、聖王の血を僅かでも受け継ぐということは、そのまま信仰の対象になるということなのだから。エリーゼも信仰の対象であり、そのことを誇りにしている。故に、聖王を受け継ぐ、名誉と由緒のある者でありながら表舞台に出てきていないことが、彼女にとっては意外なのだろう。
「仕方ありませんよ。フィアット家なんて、もう何十年も前に廃業したような家系ですし。それに、今では私しか残っていませんから」
しかし、エリーゼに答えるアリカの声は、どこか寂しげだった。
三人の間にある空気が、少し変わった。
「……ごめんなさい、フィアットさん」
「……どうして謝るんですか?」
「いえ、その……辛いこと、思いださせてしまったようですから」
おそらく、言ってしまってから、しまった、と思ったのだろう。
エリーゼは聡い。だからこそ、アリカのほんのわずかな変化に気付いたのだ。
だから、とても申し訳なさそうに、エリーゼはアリカに謝った。
今では私しか残っていませんから。
その言葉が意味するところは、つまり。
「……気にしないで下さい。私の両親が亡くなったのは、もう昔のことですし。今は祖父母が良くしてくれていますから、私も、今ではそんなに気にしていませんし」
嘘だ。
ヴィヴィオはそう思った。
気にしていないのなら、本当に立ち直っているのなら、そんなに悲しい声が出るわけないじゃないか。そんなに悲しい笑顔なんて、するわけないじゃないか。
アリカの悲しみの深さを知るヴィヴィオは、それでも平気をアピールするアリカを、複雑な気持ちで見つめた。
オッドアイ。
聖王の印。
二人が知り合うようになったきっかけはそれだが、二人が仲良くなった理由は、アリカの両親のことに関係する。
二人が出会ったのは、ヴィヴィオがザンクト・ヒルデ魔法学院に入学してから、少し過ぎてからのこと。
アリカが母親を亡くしてすぐ、精神的にズタボロで、どん底にいた頃のことだった。
幸いにも、ヴィヴィオと友達になってからは、時間が癒してくれたというのもあるのだろう。二人でいるときにはアリカは少しずつ笑うようになり、次第に本来の明るさを取り戻していったのだが。
『神様なんて、この世に存在しないんだね』
そう、吐き捨てるように言ったアリカのことを、ヴィヴィオは今でも覚えている。
今年の頭くらいまで、朝のお祈りや、月に一回くらいにある礼拝すら拒否していたくらいだ。
アリカと同じく本当の両親がいないヴィヴィオであるが、ものごころついたときから、優しい両親や、素敵な仲間達に囲まれて育ってきたのだから。
アリカがどれだけの絶望を味わったのか、ヴィヴィオには想像もつかない。
「……本当に大丈夫、アリカちゃん?」
「大丈夫だよ。もう、ヴィヴィオは心配症なんだから」
言い、少し困ったように微笑むアリカ。
その笑顔が、あまりにも儚げで。
ヴィヴィオは思わず、アリカのことを抱きしめていた。
「…………ヴィヴィオ?」
「無理しちゃ、駄目だよ」
ヴィヴィオは、アリカが本当のどん底にいた時のことを知っている。
知っているからこそ、今のアリカがどれだけ不安定なのか、分かってしまって。
「そんなんじゃ、また、アリカちゃんが壊れちゃう。……私は何もできないけど、お話を聞くことくらいはできるから。一緒に考えて、一緒に泣くくらいならできるから。だから、アリカちゃん。そんなに、なんでも一人で抱え込まないで」
ぎゅ、と、アリカを抱きしめる腕に力がこもる。
「…………ありがとう、ヴィヴィオ。でも、私は本当に大丈夫だから」
「……本当に?」
「本当だよ」
優しく、アリカがヴィヴィオを抱きしめ返した。
「まだ、昔のことを笑って済ませることはできないけど。でも、きっとすぐに、私は普通に過ごせるようになる。悲しみに囚われずに。お母さんの話になっても、きっと、笑っていられるから」
「アリカちゃん……」
抱きしめられた状態で、今のヴィヴィオには、アリカの表情が見えない。
ただ、ヴィヴィオは、アリカが優しく微笑んでいるような、そんな気がした。
「ごめんなさい、フィアットさん」
「エリーゼさん。……私は、気にしていませんよ」
「でも……」
エリーゼは、とても真面目で誠実な人だ。
だから、アリカに悲しいことを思い出させてしまったことを、本当に後悔しているのだろう。
「でしたら……私のことも、アリカ、って呼んでください」
「え?」
「悪いことをした、と思うのなら、私のことも名前で呼んで下さい。……ヴィヴィオが、教えてくれたんです。悲しいことがあっても、友達がいれば、乗り越えられるって。名前を呼べば、友達になれるって。」
どこまでも穏やかなアリカの声。
エリーゼはその声に、数秒だけ戸惑ってから……、それから、笑顔で頷いた。
「分かりましたわ。……アリカ」
「はい。ありがとうございます。エリーゼさん」
微笑みあう、アリカとエリーゼ。
二人の優しい雰囲気にあてられて、ヴィヴィオもいつの間にか、笑っていた。
「結局、これといった手掛かりにはなりませんでしたわね」
無限書庫からの帰り際、エリーゼが呟いた。
「そうですね……」
その言葉に、ヴィヴィオは頷く。
あれから数時間、ヴィヴィオ達は過去の文献と書類の情報を照らし合わせ、比較し続けた。
その結果として分かったのが『現代に残る聖王の継承者達に、差異はほとんどない』ということだった。一応、聖王の魔法の一部を使用することができるエリーゼと、聖王の印を持つアリカが聖王に近しいと言えないこともないが、精々そのくらいだ。
結論として、大した手掛かりにはならなかった、というのが正直な意見だった。
「折角、司書長さんにお願いして、禁書区画の本も探してもらったのに。残念でしたね」
エリーゼの言葉に、アリカが相槌をうった。
アリカの言うとおり、一般開放区画や非公開区画では埒が明かない、と思ったヴィヴィオ達は、無限書庫の若き司書長であるユーノにお願いして、禁書区域の検索も依頼したのだ。
無限書庫は、おおまかに言えば三つの区画分けが成されている。
一つ目は、普通の人でも許可無しで資料の検索ができるように情報が整頓された、一般開放区画。いわゆる、普通の図書館のような場所である。
二つ目は、一般人も許可を得れば使用することはできるが、資料がまったく整頓されておらず、司書並の検索能力が必要とされる非公開区画。この区画に、無限書庫に収められている本の八割以上があると言われている。
そして三つ目が、非公開区域の一部である、禁書区画。例えば秘匿級ロストロギアの在り処やその操作方法など、一般人、場合によっては管理局局員にすら開示することのできないことの記されている本が収容・封印されている区画である。この区画の本を検索するには、管理局上層部の許可を得るか、司書長に直接本の検索を依頼しなければならない。なぜなら、この区画にある本一冊あるいは封印されている情報が世に流出しただけで、次元世界を巻き込む大事件に発展しかねないのだから。
だが、ユーノにお願いして、禁書区画の情報も調べたがいいが、結果は芳しくなかった。
「…………」
顎に手をあて、考え込みながら歩くヴィヴィオ。
「ヴィヴィオ、どうかしましたか?」
その様子を不審に思ったのか、エリーゼが話しかけてきた。
「いえ……。もしかしたら、ひょっとして、私達は何か思い違いをしているんじゃないかな、って」
「思い違い?」
ヴィヴィオの言葉に、アリカとエリーゼが首を傾げる。
「禁書区画を探してすら、有用な情報は得られなかった。ですから……私達は、何かとんでもない勘違いをしているんじゃないかな、って思ったんです」
「……よく分かりませんわね。資料が無かったことが、どうしてそういう結論になるんです?」
分からない、といった具合に首を傾げるエリーゼ。
アリカも同じように、表情を曇らせて俯いていた。
「私も、なんとなくそう思っただけで、確証はないんですけどね」
自分の考えに確証が持てないのか、弱弱しく笑うヴィヴィオ。
無限書庫にも情報がない。普通の人ならば、それでも納得するだろう。
だが、ヴィヴィオは無限書庫の司書として、ここで調べ物を長い間してきた経験がある。
その経験が、少しだけ、違和感を告げていた。
その違和感が何なのか、ヴィヴィオには分からないのだけれども。
「……変なこと言って、二人を困らせちゃいましたね」
「いえ。そんなことはありませんよ」
「そうだよ、ヴィヴィオ。私達の中ではこういうことにはヴィヴィオが一番優秀なんだから。ヴィヴィオが思ったことが、何かの手がかりになるかもしれないんだし」
笑顔で、励ましの言葉を紡ぐエリーゼとアリカ。
二人の思いやりが、ヴィヴィオには嬉しかった。
「ありがとう。エリーゼさん、アリカちゃん」
「どういたしまして」
「全然構わないよ、ヴィヴィオ」
笑い合う三人の少女達。
確かな情報こそ得られなかったが、ここで得たモノは大きい。
だから、今日のこの時間は、決して無駄ではない。
エリーゼとアリカが友達になったこと、アリカが本当の意味で立ち直る可能性があること。それが分かっただけで、今日の収穫は十分だ。ヴィヴィオはそう思うことにした。
「さぁ、早く帰りましょう。ヴィヴィオ」
「そうだよ、ヴィヴィオ。情報が無かったものは仕方ないんだしさ」
ヴィヴィオに向けて、最高の笑顔を向けてくれる二人の友達。
ヴィヴィオはそんな友達に、最高の笑顔を返すのだった。