昨日、怪我が完治する前に、シグナムはドイツへ向った。
今日、アタシの怪我の完治を見届けて、はやてはイギリスに向かった。
二人とも、強くなるために、今の自分と向き合うために、それぞれの目的地に向かった。
なら、アタシは?
アタシも、リリと呼ばれた少女に敗北した。リリはアタシとほとんど同じ顔をしていて、だけどアタシとはまったく逆の性格をしていた。そこに、確かにアタシは動揺した。
そして、それ以前に、アタシはリリに手も足も出なかった。
同じように敗北した、シグナムやはやてと、アタシとの、決定的な違い。
それは、二人のように善戦したわけではなく、完敗したということ。
強制催眠能力
魔法の力ではなく、精神の力で、相手の心を操り、身体に影響を与えるほどに強力な幻覚を見せつける能力。アタシは、あれから三日たった今でも、対抗策が考えられずにいる。
どうすればアタシは、リリに勝つことができる?
どうすれば、アタシは、はやてのことを護ることができるんだ?
「…………」
ベッドに腰かけたまま、ヴィータは自分の頭を抱えている。
考えるのは、自分を倒した少女、リリのこと。あの特異な能力のこと。
どうすれば、あの能力に対抗できる?
ヴィータが持つすべての知識や記憶を総動員して、対抗策を考える。だが、数百年にも及ぶ経験と知恵を持ち、ありとあらゆる能力を持った敵と戦ってきたヴィータですら、いくら考えても、手がかりの糸口のようなものすら見つけることができなかった。それだけ、リリの能力は特異であり、強力なものだった。
ベッドに寝かされ、動けない状態の時からそればかり考え続け、もう三日目になる。それなのに、何も思いつかない。自分の身体が傷ついたと心と身体に認識させ、その影響を実際に身体に与えるほどの強裂な暗示をかける、リリの能力。魔法の力ではないため、防ぐことも叶わない。催眠術ということは、実際にリリがそうしたように、存在していない架空の軍列に攻撃させることもできる。その能力の大きさに、リリを倒すのは不可能なのではないか。そんなことすら、考えてしまう。
「…………クソッ!」
苛立ちから、思わず悪態をついてしまう。
しかし、どうしようもない感情が、ヴィータを襲う。
大切な人が、護れない。
そのことが、ヴィータの心を苛んでいた。
「……ヴィータちゃん」
「あ?」
名前を呼ばれ、ヴィータは顔をあげる。
ヴィータの正面には、リインがふわふわと浮かんでいた。いつの間に自分の前にやって来たのか。その表情から、自分のことを心配していることが伺える。八神一家の末娘、リインフォースⅡ。ヴィータの妹分は心優しくて、まだまだ幼い。だから、家族の誰かの負の感情には敏感に反応して、まるで自分のことのように、一緒に悲しんでくれる。背負わなくてもいい感情を、一緒に背負ってしまう。
リインのことを特に可愛がっているヴィータの心は、そんなリインの表情を見て、痛む。
ああ……ダメだな、アタシ。
リインにこんなに心配をかけるようじゃ、よっぽど酷い顔をしてるんだろうな。
目の前の大切な妹分も護れないで、何が『大切な人を護る』、だ。
「……ごめんな、リイン」
「謝る必要なんて、ないですよ。ヴィータちゃんは、真面目に考えて、考え過ぎて、苦しんでるんです。だから、『祝福の風』として、私も一緒に、考えるです」
「……まったく」
背負わなくてもいい感情を、わざわざ一緒に背負ってくれる。どうも八神家の末娘は、背伸びが過ぎる。
その優しさに、ヴィータは少しだけ、心が安らぐのを感じた。
そして、その優しさに報いるために、自分は勝たないといけない。そう、強く思う。
だが。
「ジリ貧、だな」
何度考えても、同じような考えをグルグルと回っていることは、ヴィータも自覚していた。同じことばかりしていては、新しい考え方は浮かんでこない。思考パターンが袋小路に迷い込んでいる。
ならば、こういう時にするべきことは……
「お買い物に行きましょう」
いつの間にか、部屋の中にシャマルがいた。
「……シャマル、いつの間に部屋に入って来たんだ?」
「リインちゃんと一緒に。ヴィータちゃん、よっぽど考え込んでたのね。そんなことにも気付かないなんて」
「……うっせー」
良く見ると、自分しかいないと思っていた部屋の中には、リインとシャマルの他にも、ザフィーラにアギト、アリサにすずかもいた。
「大体、なんで買い物なんだよ?」
「気分転換は大事よ。だから、街に行きましょうって言ってるの。それに、私達は、すずかさん達にお世話になってるのよ? お買い物くらい、手伝わないと」
「そうよ、ヴィータ。ずっと同じことばっか考えてても、行き詰るだけよ」
「アリサちゃんとシャマルさんの言うとおりだよ。だから、ね」
シャマルの言葉に、アリサとすずかが続く。
二人だけでなく、他のみんなも同じ意見のようだ。顔を見れば、分かる。
「まったく……。分かったよ。買い物、いけばいいんだろ?」
「そうこなくっちゃ」
ヴィータの言質を取り、シャマルが微笑む。他のみんなの表情を見る限り、どうもここにいる全員で買い物に行く気のようだ。
まったく、いくらはやてから時間を貰ったとはいえ、こういうことをしてていいのだろうか。
「…………」
いや、違うか。
少し考えて、ヴィータは考えを改める。
ヴィータは見た目こそ幼いが、これでも数百年の刻を生きて来ている。
だから、彼女達が自分のことを心配してくれることが、分かる。考え過ぎた自分のことを心配してくれて、気遣って、だから一緒に買い物に行こうと誘ってくれたことが、理解できる。
それが理解できないほど、鉄鎚の騎士は愚かではない。
「……ありがと」
そのことに感謝し、しかし面と向かってお礼を言うのはなんだかこそばゆいので、誰にも聞こえないように、ヴィータは感謝の言葉を呟いた。
「? ヴィータちゃん、なにか言いましたですか?」
「……いや、なんにも」
※
海鳴の街は主に、閑静な住宅街と商店街で構成されている。住むところは適度に都会であり、適度に田舎。何かがなくて困るということもないし、物や人が多過ぎて煩わしいということもない。商店街まで足を延ばせば大概のものは揃うし、やろうと思えば幼稚園から大学までエスカレーター式で進学することもできる、ある種の完成された街である。
そういう背景もあり、商店街はいつも賑やかだ。
当然そこには、平日であってもそれなりの人がいるし、休日である今日は、特に多くの家族連れで賑わっている。
その人ごみの中で、自分達のグループは、一体どういう間柄に見えるのだろうか。
商店街にやってきて、ヴィータはふと、そんなことを考えた。
「は~、海鳴の街にも、人が沢山いるなー」
驚いたような声を上げているのは、多少の紆余曲折はあったものの、八神家の下から二番目の妹、ということに落ち着いたアギトである。
「アギトちゃん、海鳴の街って初めてでしたっけ?」
「いや、こんなに人がいるのを見るのは初めてだ」
ちなみに、アギトはリインと共に、アウトフレームフルサイズ。いつもの妖精サイズではなく、アリサとすずかのお下がりを着た、真っ当な人間のサイズである。尤も、それでも小さいのは設定されている肉体年齢が低めだからだ。
「……んで、何を買うんだ?」
「そうねー、必要なものは今日の晩御飯の材料だけど、それは帰りに買えばいいから……」
「とりあえず、適当にブラブラしましょう。ウィンドウショッピングってやつね」
「それから、お昼ご飯を食べて、また適当に、だね。アリサちゃん」
「そういうこと。どうですか、シャマルさん?」
まずはアリサとすずかが大まかな方向性を決めてから、シャマルに確認を取る。
「私達も、それで問題ないわ。みんなはどうかしら?」
「……ま、それでいいんじゃねーの」
「ウィンドウショッピングですかー。リインは、それが良いです……というか、それがしたいです!」
「私も、こっちの世界にどんなものがあるか知りたいし、それで問題ないよ」
「……我にはもとより断るという選択肢がない」
及第点を伝えるヴィータと、年頃の女の子らしくノリノリのリインとアギト、そして一人だけ男性で肩身の狭いザフィーラが、それぞれ同意を伝える。幾分ザフィーラがかわいそうな気がするが、彼は今現在大型犬のフォルムであり、元より自己主張をする方ではないので、問題ない。多分。
「じゃあ、それでいきましょう。アリサちゃん、すずかちゃん」
「はい」
「そうと決まったら、早く行きましょう。時間は有限なんですから」
シャマルやアリサ達はノリノリで、商店街の中心地に向かって歩き始める。それに、他の五人ほど乗り気ではないヴィータとザフィーラが続く。
……まぁ、考えも煮詰まってたし、シャマル達の言うとおり、こういうのも悪くないだろ。
こういう時は、アイスでも食べながら頭を冷やすのが、一番だからな。
ヴィータは自分の中でそう結論付け、ふと、何気なく、雑踏に目をやった。
「…………な!?」
普段なら、何も気に掛けない雑踏の構成人員。その中に、有り得ない、予想外の人物を見つけて、ヴィータは思わず歩を止める。
「……? どうしたですか、ヴィータちゃん?」
「そうだぜ、姉御。なにをこんなところに突っ立って――」
突然立ち止まったヴィータに気付き、再びヴィータの元に戻ってくる仲間達。そして、ヴィータの視線の先の存在に、気付く。
「まさか……」
「ンナ、馬鹿な……」
この場にいるヴォルケンリッター一同に、緊迫感が走る。
そして、その気配に、相手方も気付く。
「あなたたちは……」
「…………」
海鳴商店街の、人ごみの中。
そこにいたのは、あの夜、八神家一同を追い詰めた四人組の内の、アニタと、そして、ヴィータと同じ姿形をした、リリという少女だった。
まさか、こんな街中で出会うというのは、予想外だった。
こんなところで出会うハズがないと、たかを括っていた。
反射的に、戦闘態勢を取る。首から下げたグラーフアイゼンを掴み、いつでも起動できる状態にする。他の仲間達も同様に、すぐに次のアクションが取れるように身構える。今この瞬間に相手が飛びかかって来ても対応できるように、心の中のスイッチを切り替える。
この事態に着いて来れないのは、戦闘経験のない、アリサとすずか。
そして、どういうわけか、アニタとリリも、戦闘態勢を取ろうとはしなかった。
「……どういうつもりだ?」
その態度に不信を覚え、ヴィータは問う。
対してアニタの返答は、なんとも気の抜けたものだった。
「いや、だって、私らはあんた達と戦う気はないし」
「……はぁ?」
仮にも次元犯罪者とは思えない物言いに、ヴィータだけでなく、他のみんなも動揺する。
「戦う意思が、ないですか……?」
「うん。それとも、あんたらはこんなところで戦いたいのか?」
リインの問い掛けにも、アニタは至って真顔で答える。どうも、本心からそう思っているようだ。
アニタの言うとおり、こんなところで戦えば、例えリリとアニタを捕らえることができたとしても、大惨事になることは避けられない。結界を張ったところで、破壊したものは修復しなければならない。
それに、ここで戦ったところで、アニタはともかく、リリに勝てる保証がない。
強制催眠能力
。あれを、ここにいる全員に発動させることができたら。あるいは、ここにいる誰かを、人質に取られたら。現段階では、対応は不可能だ。
できることならば、ここでの戦闘は、ヴィータ達も避けたかった。
「なら、どうして、こんなところに来たんだ?」
「どうしてって……。そうだな、強いて言うなら、リリに、この世界のものを、見せてあげたかったから、かな」
警戒心むき出しのヴィータに対し、応えるアニタはなんとも気楽なものだった。まるで、観光旅行に来て、自分の妹か娘に世界を見せてあげたい、そんなニュアンスの言葉。
これが、次元犯罪者の態度か?
今まで見てきた次元犯罪者達の態度の中でも、かなり特殊な対応をするアニタに、ヴィータは驚く。そして、毒気が抜けてしまいそうになる。
ついでに、先ほどから気になっていたのだが。
「…………どうして、アタシの顔をじっと見てるんだ……?」
出会った時から、一言も喋らないリリ。彼女はどういうわけか、ヴィータの顔を、無言でじっと見つめていたのだ。普段なら全力で警戒するところなのだが、リリからは悪意ある感情や気配をまったく感じないのだ。なにか仕掛けるにしても、あの能力なら、仕掛ける前に一方的にヴィータの感覚を支配できる。わざわざなにかを仕掛けるメリットもない。
と言うか、悪意でも好意でもなく、ただじっと見つめられ続けることが、落ち着かない。
「…………おなじ」
「あ?」
「…………私と、同じ顔。同じ
容
。なのに、違う」
ようやく口を開いたと思っても、意味の分からない言葉。
アクションを起こせず、ヴィータは内心戸惑っていた。
それは他の仲間達も同じようで、動けず、じっとリリとアニタを警戒するしかない。
場が、硬直する。
「…………そうだ!」
その硬直を解いたのは、アニタだった。
何か名案を思い付いた、そう言わんばかりの勢いで、ヴィータに話す。
「君……ヴィータ、だっけ? もしよかったら、だけど、これから、リリの相手をしてくれないかな?」
「……は?」
意味が分からない。
リリの相手をしろ、だと?
決闘でもしろ、という意味ならともかく、今のアニタの物言いから察するに、子供同士で一緒に遊んでくれないか、という意味に聞こえた。
「……何を企んでやがるんだ?」
「何も。ただ、リリが人に興味を示したのは、ヴィータが初めてだからさ。ヴィータなら、もしかしたら、と思ってさ」
訪ねたいことが、その言葉には満載だった。これだけ、一言に突っ込みどころがある言葉も珍しい。
だが、ヴィータはどういうわけか、それらを詳しく尋ねる気にはならなかった。
アニタに真意を尋ねる代わりに、相変わらず自分のことを見つめ続けるリリの瞳を覗く。同じ顔といっても、完全に同じわけではない。リリの方が、髪の色や瞳の色、肌の色など、ヴィータに比べて全体的に色素が薄い印象を受ける。髪型も、リリは無造作におろしているだけだ。なにより、姿形が同じであっても、その魂の在り方が正反対だ。ヴィータは激情家で、リリは感情がないのかというくらい、感情を表に出さない。自分を見つめる瞳にも、感情が伺えない。
ただ。
ヴィータはその瞳の奥の奥に、何かを、感じた気がした。
「…………分かった。リリの相手をしよう」
「ヴィータちゃん!?」
「姉御、一体何を考えてるんだ!?」
「そうよ、ヴィータちゃん。相手の企みも分からないのに」
当然、仲間達からは反対される。
「……乗りかかった船だ。どうせジリ貧だったんだし、上手くすれば、何か手掛かりが掴めるかもしれない。それに……ここで引いたら、騎士じゃねー」
騎士としての矜持。
手掛かりの可能性。
すべてを考慮して、ヴィータは、アニタの提案を呑んだ。
「…………」
あるいは。
リリの瞳の奥の奥。
その先に、底なしの哀しさが見えたような気がしたから、なのかもしれない。
ヴィータは見た目こそ幼く、精神年齢も低めに設定されているが、それはあくまでも設定であり、実際には数百年の刻を生きてきた経験がある。
一方でリリは、感情こそ希薄だが、実際には見た目相応の年齢である。
つまり、この二人が遊ぶ際には、精神年齢が低い方に合わせる必要があるわけで。
奇妙な遭遇の後、ヴィータ達は商店街の外れにある公園に向かった。この公園はそこそこ広く、座って休むところもいくつか設けられているので、座って話をするのにも丁度いい。
『リリと遊んでくれる代わりに、私が答えられる質問には答えるからさ』
その言葉を信じ、リリの相手をヴィータに任せ、シャマル達はアニタから話を聞いていた。
一方で、ヴィータはリリの相手をしようと奮闘していた。
本来、子供というものは、感情の起伏が激しい生き物である。嬉しいことがあれば喜ぶし、嫌なことがあれば怒る。悲しいことがあれば泣くし、楽しいことがあれば笑う。子供達は全身全霊で周囲の環境を受け取り、全力を以てして対応する。
しかし、リリにはそれがない。
徹底的に感情が削ぎ落されたような印象すら受ける。それほどまでに、リリは感情を表に出さないし、感情というものを持っているのかどうかすら分からなかった。
こういう、感情があるのかどうかすら分からない人間をヴィータはこれまでにも見たことがあるが、それは戦場で、しかもそういう洗脳操作を受け、操り人形として扱われてきた被害者達である。外的要因で感情を無理矢理剥奪された彼らと、自分から感情を放棄したとしか思えないリリには、決定的な違いがある。
それに、リリとヴィータは一応あるロストロギアを求める敵同士であるハズなのに、リリは一切の敵意や害意をヴィータに向けていない。そして、これからも、そういう感情を向けられる気が全くしなかった。故に、リリに警戒心を抱くことが無駄に思えて仕方なかった。それは、リリと自分の顔や形が似ているから、というせいもあるのだろう。しかし、それを差し引いても、リリのことを敵、というよりは本当に年相応の子供にしか思えないのだ。
だから、リリにはとりあえず僅かばかりの警戒心を残しつつ、年相応の子供として対応しようとしているのだが……ヴィータは困っていた。
先ほどから、何を話してものれんに腕押しなのだ。
アニタが、ヴィータはリリが自ら興味を示した初めての人間、みたいなことを言っていたが、果たしてそれが本当なのかどうか、ヴィータには判断できなかった。
これはもう、手がかりどころではない。
公園を散歩するにも、限界がある。
これはどうしたものか。ヴィータは、頭を悩ませていた。
「…………アレ」
「ん?」
その時、リリが初めて、なにかに興味を示した。公園にあるそれを指差して、ヴィータの服の裾をクイクイと引っ張っている。
「ああ、あれはアイスの屋台だな」
「アイス……?」
「知らないのか?」
ヴィータの問に、リリはコクンと頷いた。ようやくリリが見せた、比較的子供らしい反応にヴィータは何故か、少しだけ安堵した。
「リリの住んでた世界には、アイスがないのか?」
再び、コクン、と頷くリリ。
なるほど。アイスが存在しない世界もあるのか。……そんな世界、住みたくないな。
となると、これは、アイスの良さを教えてやらなければならない。
元より姐御肌で、アイスをこよなく愛するヴィータである。
こういった場合、することは決まっていた。
「リリは、なにか食べられないものはあるか?」
リリはフルフルと首を横に振った。
「……よし。ちょっと待ってろ」
ヴィータはリリをその場に残すと、アイスの屋台に実に弾んだ足取りで向かい、慣れた様子でアイスを二人分購入し、リリの元に戻って来た。
「ほれ、リリ」
「……これが、アイスなの?」
「ああ。ほら、立って食べるのは良くないからな。あっちに座って食べるぞ」
リリを促し、近くにあったベンチに並んで腰かける。
その光景は、仲の良い姉妹そのものだ。
「ようし。じゃあ、いただきます、だ」
「いただきます?」
「あ、そっか。この挨拶はこの世界だけだったな。……えーと、なんて言えばいいのかな。食べ物に感謝する、食事前のお祈りみたいなものだ」
「お祈り……」
「では、いただきます」
「……いただきます」
リリにもいただきますをさせ、ヴィータは五段重ねのアイスの内、一番上のアイスを一回で口に放り込んだ。途端、口の中に広がる冷たさと、苺の甘い香り。氷菓子が口の中で溶けていく感覚。……そして直後、ヴィータの頭を激痛が襲う。
「! ――――っか~~、たまんねー」
複雑な笑顔で頭を押さえながら悶えるヴィータ。
知らない人が見たら、何かを疑われそうな光景である。
「…………」
その一連の動作を、リリはじっくりと観察していた。
ヴィータのほぼ奇行としか思えない食べ方を、しかしアイスを知らないリリが奇行だと思うことはできない。それが正しい食べ方だと思ったのか、ヴィータから視線を離し、手に持った二段重ねのアイスをじっくりと見つめてから、
一番上のアイスを、躊躇いなく一回で口の中に放り込んだ。
「あ」
「……………………!!?? ――――――――!!??」
無言で咀嚼し、無言で悶えるリリ。よほど驚いたのか、戦闘のときでさえ感情が出なかった顔を僅かに歪め、手にしていたアイスを手放してしまう。そのアイスはリリの行動に気付いたヴィータが慌ててキャッチしたため無事だったが、リリ本人は無事ではなかった。頭を押さえ、僅かに震えている。
「……そりゃ、知らずにアレをやったら、そうなるわな」
自分の軽率な行動を少し反省するヴィータ。
そして、リリが少しでも顔を歪めたことに、安堵する。
なんとなく、ヴィータも感じてはいたのだ。
リリが感情を持たない理由に。
「……ほら、リリ。アイスはな、本当はこうやって食うんだ」
リリが落ち着いてから、ヴィータはアイスの食べ方を講釈する。曰く、あの食べ方はアイス初心者にはお勧めできない。自分のようなアイスマスターにならないと、到底できる食べ方ではない。だから、リリはアイスの表面を舌で舐め取りながら食べるのが良い、と。
リリは割と素直なようで、ヴィータの講釈を真面目な表情で聞くと、ヴィータが教えた通りに、小さな舌でアイスを舐め始めた。
「そうそう」
「…………おいしい」
アイスを舐めながら――少しだけ、ほんの少しだけ、リリが微笑んだ。
その表情を見届けてから、ヴィータも満面の笑みで、アイスを食べ始めた。
ヴィータがリリにアイスを買い与えた、ちょうどその頃。
シャマル達は、アニタから話を聞いていた。
「……つまり、今日こうして私達と出会ったのは本当に偶然で、ヴィータちゃんとリリちゃんを遊ばせているのは、純粋にリリちゃんのためなのね?」
「だから、そう言ってるじゃんか。そりゃ、私の言い分が信じ難いのは分かるけど」
敵に囲まれているのに、アニタは至って呑気だった。あるいは、シャマル達が警戒しすぎなのかもしれないが。
「……なぁ。あんたら、リリの能力のこと、知ってるか?」
「
強制催眠能力
。魔力ではなく、精神の力で相手の心に干渉し、幻覚を見せたり、感覚を狂わせたり、高位の術者の場合、相手の心の隙間につけこんで、相手の身体や心の自由を奪う能力」
アニタの問に、この場で一番超能力に対して詳しい、すずかが答えた。
「そうだ。リリの場合はその能力があまりにも強すぎて、精神だけでなく身体にまで影響がいくんだ。痛覚神経を刺激するだけでもそういないのに。あの年で、リリはそれだけの能力を使えるんだ」
「……ということは、普通の
強制催眠能力
では、肉体は傷つかないですか?」
「ああ。精々が、心の隙間につけこんで、相手の自由意志を奪うことだね。心への影響を身体にまで反映させるほどの強制催眠なんて、歴史上にも片手の指の数ほどもいない。リリの力は、間違いなく歴代最強だよ」
どこか疲れたように、アニタはそう答える。
「しかも、リリの能力はそれだけじゃない。あの子は、
強制催眠能力
であると同時に、
精神感応能力者
でもあるんだ。そっちの方も、相手の表層意識だけでなく、過去の記憶やトラウマなんかも読み取ることができる、強烈な力を持っている」
精神感応能力。
これも、言葉を介さず精神の力で相手の心を読んだり、自分の意志を相手に伝えたりする超能力の一種である。テレパシー、と言えば割とメジャーだろう。いわゆる、思念通話と似たようなものである。そう、すずかがシャマル達に説明した。
「この
精神感応能力
にしても、リリは強力すぎる力を持っている。自分が望めば、相手の生まれたときから、自分の思い出せない記憶まで読み取ることができる。その力で相手のトラウマを読み取ってから、その幻覚を見せつければどんな相手でも無力化できるんだよ」
アニタが話す、リリの能力。
その能力があまりにも強力すぎて、シャマル達は言葉も出ない。
なんだその反則的な能力は。トラウマを読み取って、それを相手に見せつけるだって?
少なくても現時点では、対抗策が思いつかない。
そんな能力に、どうやって対抗すればいい?
「…………」
しかし。
「……どうして、そんな重要なことをペラペラと喋るんだ?」
アギトの疑問はもっともなものだ。
こういうことは、話さないのが定石である。下手に話せば、対抗策を与えることになるかもしれないからだ。
それなのに、アニタは躊躇うことなく、シャマル達にリリの能力の説明をした。
「……ヴィータなら、もしかしたら、リリのことを救えるかもしれない、と思ってね」
今度はどこか悲しそうな表情で、一旦言葉を切り、アニタは話を続ける。
「リリの場合、まだ幼くて、この能力を制御しきれていない。自分がそうと望んだとき以外にも、不意に、周りの人の考えが頭の中になだれ込んでくることがある。それこそ、周りの人達がそのときに考えていることから、心の裏側に隠している部分までね。しかも、あの子はあれでも、私達の世界の王族の末裔なんだ。当然、あの年ですでに大人の社会というものに関わらされている。……それって、どういう気分だと思う?」
「…………最悪、でしょうね。心の読めない私でも、そういう世界の、人の心の闇には辟易するわ。それでなくても、人の心の闇なんて、見たいものじゃない。それを、あの年で、直接覗くことができたなら……いや、無理矢理見せつけられたら……アタシなら、正気を保てるかどうかも、怪しいわね」
アニタに答えたアリサの言葉には、実感がこもっている。それは、似たような社会に幼い頃から関わり、それなりに嫌な想いをしてきたアリサの感想だ。心の読めないアリサですら、それに嫌気がさしているのだ。
ならば、望む望まないに関わらず、周囲の人間の考えていることが直接頭の中になだれ込んでくるならば。
「……あなたにも、似たような経験があるのね」
「まぁね。アタシの場合は、相手の心までは読めないけど」
「なら、分かってくれるよね、リリの辛さ。……あの子が、他の大人達に、なんて呼ばれてると思う?
悪夢
、よ。なによ、自分達の心の汚いところを直そうともしないで、リリを化物呼ばわりとか、ふざけるんじゃないわよ!」
それまで呑気で、穏やかだったアニタが、語気を荒げる。
それだけ、アニタにも思うところがあるのだろう。
「……だからリリは、感情を捨てた。そんな汚いものも、冷たい視線も、感情さえなければ何も感じずに済むから。嫌だ、と思う心さえなければ、嫌な気持ちにはならないから。だからあの子は、その能力を気味悪がられて親に捨てられた時も、泣かなかった。ただ、それを現実だと受け入れて、悲しむこともなく、今もああしている。たった七歳の、あんな小さな女の子が、だよ?」
一体、どれだけの闇を見たのだろう。
一体、どれほどの悲しみを背負ったのだろう。
一体、どんな想いだったのだろう。
たった七歳の女の子が見てきた、人の心の闇。
一人の女の子が感情を放棄するほどの重さを、ここにいる誰もが知らないでいる。
「そのくせ、その能力を見込んで、アレを集めさせる選抜隊に組み込むしさ。都合がよすぎるんだよ。…………だから私は、リリを救いたい。あの年で感情を捨てないといけない人生なんて、そんなの、悲しすぎるよ……」
まるで自分のことのように、アニタは言う。
親にすら捨てられた、それだけの能力を持つリリのことを、アニタは救おうとしている。
「だけど、リリが背負う闇は、あまりにも重すぎるんだ。アンリエットとキョウヤも協力してくれてるんだけど、あんまり効果がない。それに私達も、真っ当な人と人との繋がりを知ってるわけじゃないからさ、そういうの、良く分からないんだ」
アニタは、心の底から、リリのことを案じている。
少なくともシャマル達には、言葉面だけでなく、心から、そう思えた。
「だけどそこに、ヴィータが現れた。リリが誰かに興味を示したのは、ヴィータが初めてなんだ。だから私は、ヴィータに賭けてみることにした。図々しいことだっていうのは分かっている。昨日は敵同士で、今日は仲良くして、なんて、虫が良すぎると思っている。だけど、それでも、私は、リリを救いたい。本来なら敵であるあんた達に頼ってでも、私はリリを救いたいし、リリは救われないといけないと、思ってるんだ」
アニタの話を聞いたシャマル達には、アニタが嘘を言っているようには思えなかった。アニタは、心の底からそう思っている。リリのことを救いたいと願っている。そう、感じることが出来た。
なぜならば、自分達にも、同じような想いを抱えていた時期があったから。
故に、シャマル達は、確信する。
アニタの。リリへの想いは、本物だ。
「……ひとつだけ、聞かせて。話を聞く限り、あなた達とリリちゃんは、家族どころか血縁ですらない。なら、どうして、リリちゃんを救いたいの?」
「……私達は、リリほど酷くないけど、子供の頃から親がいなくて、寂しい想いをしてきたんだ。だから、一人ぼっちでいる辛さは、良く知ってる。手を差し伸べてくれる人の暖かさも知ってる。…………見てられないんだ。本当は泣きたいくらいに寂しいのに、そのことに気付くことすらできないリリのことが。だから、リリには、私達と同じ想いをさせたくないんだ」
ああ――この子、私達と同じなんだ。
人と人との温もりを求めている。
泣きたいくらいに寂しくて、悲しくて。そのことに気付けなくて。
与えられた暖かさを手放したくなくて。
受け取った絆を、紡ぎたくて。
赤の他人だったのに、本当の意味で家族になった私達と、この人達は、同じなんだ。
※
「…………」
リリの横に並んで座ってアイスを舐めながら、ヴィータはアニタの話を、シャマルの思念通話を介して聞いていた。魔導師には、この手のマルチタスクは必須能力だ。故に、リリの相手をしながら話を聞くくらい、ヴィータにとっては造作もない。
むしろ問題なのは、アニタが話したことの意味だった。
リリには感情がない。そのことから、ある程度の予測はついていたが、リリの抱える闇は、ヴィータが考えていた以上に深刻で、根が深いものだった。
何から考えていいのか、どうしていいのか、判断がつかない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
リリが相手の考えを読み取ることができるというのならば。
「……聞いたんだね。私のこと」
「…………ああ」
このように、ヴィータがアニタの話を聞いていたことや、考えたことが、リリに筒抜けなわけで。
……取り繕ったところで、意味がないな。
なら、正面からぶつかるしか、ないか。
「怖がらないんだね」
「……まぁ、リリが感情を持たない理由は、ある程度は予測できたからな。分かっていれば、驚くことも、怖がることもない。それに、アタシらも似たようなもんだ。怖がる理由がねー」
人ならざる能力故に親にも見放されたリリ。それならば、ヴィータ達も、人ならざる者である。闇の書の生み出したプログラム生命体。長い歴史の中で、兵器として、道具として扱われることもあれば、年を取らず、姿形の変わらない化け物として忌避されたこともあった。あるいは、リリのように、感情を捨てれば楽になるのかもしれないと思ったこともあった。
それらの出来事は過去のことであり、今では家族と呼べる人達と、優しい主の下で幸せな毎日を過ごしているが。自分達が人間ではなく、存在そのものが怖れられることもあることには変わりがない。
「そうじゃない……」
「ん? 何が違うんだ?」
「……私が、あなたの心を読み取ることが…………怖く、ないの?」
「ああ……」
そっちか。
確かに、心を読まれるというのは、あまり良い気分はしない。今考えていることだけでなく、過去の思い出したくないことやトラウマまで掘り出されるのは、できれば勘弁して欲しい。
だが。
「それだけだ」
「それ……だけ?」
「考えてることが知られた? だから、どうしたってんだ」
「…………」
そう。思考が読まれたところで、今すぐ困るということもない。
その読み取られた記憶を悪用されることを怖れるべきなのかもしれないが、リリはそんなことをする子ではない。僅かな時間、一緒にいるだけで、ヴィータにはそう思えた。
これでも、長い刻を生きてきた経験がある。だから、なんとなく分かる。
リリは本当は、素直で、心の綺麗な子なんだ。
綺麗だったから、人の心の闇に苦しんだんだ。
綺麗だったから、人の心の汚れに耐えきれず、感情を捨てないと自分が保てなかったんだ。
それは、どれだけの悲しみなのだろうか。
辛いという感情を持たない代わりに、楽しいという感情を持たない。悲しいという感情を持たない代わりに、嬉しいという感情を持たない。負の感情を持たず、正の感情を持たない。自分が本当は泣きたいほどに悲しくて、寂しいのに、そのことに気付くことすらできない。
それは、あまりにも悲しいことだ。
ヴィータは、そのことを知っている。
寂しくて、泣きたいのに泣くこともできない。悲しいことに気付けなかった時代がある。
だから、思った。
救いたい、と。
人の心の闇に飲み込まれたリリ。
こんな小さな女の子が、感情を捨てないと生きていかれない世界なんて、悲しすぎる。
こんな小さな女の子が、笑顔で過ごすことのできない世界なんて、間違っている。
リリは、救われないといけない。
ヴィータにも、心の底から、そう、思えた。
物語は、動きだす。
ひとつは、ドイツで。
ひとつは、イギリスで。
そしてもうひとつは、日本で。
この事件の発端となった、とあるロストロギアに纏わるお話。
その事件は、誰もが思うよりも、深いところで繋がっている。