「勝負や、アンリエット!」
はやての声が、己の耳に心地よく響く。
その声が言葉が心が在り方が、今までのはやてとは違う。
何かに急き立てられるように戦い、全てを自分で背負おうとしていたはやて。その背負ったものの重さに押しつぶされて、どこか俯いていたような気がしていた。今のはやては、その重いものを背負ってなお、前を向いている。
あの日のはやてはもういない。
今私の目の前にいるのは、私達の真の主として目覚めた、新しいはやて。
何がはやてをそうさせたのか、私達は知らない。
だけど、そんなことはどうでもいい。
大事なのは、私達の主はやてが、私達の前に立っているということ。
私達が心の底から、自らの主を誇れるということ。
主の信念が私達の動力源。
主の命令が私達の行動指針。
そして、主の願いが、私達の願い。
以前、言われたことがある。
『あなたの力は、悲しみを打ち砕く力。あなたに壊せない悲しみなんて、この世のどこにも、ありはしない』
そう。私の力は、目の前にある障害を破壊する、破壊の力。
だからこそ私は私の力で、目の前の悲しみを破壊しよう。
私と相対するのは、心が凄く綺麗で……綺麗だったからこそ、汚されて、壊れてしまった女の子。悲しみに囚われて、笑うことすら忘れてしまった、哀しい女の子。
私が破壊するのは、目の前の小さな女の子を蝕む悲しみ。
鉄鎚の騎士ヴィータ
。
夜天の主の名の下に。
目の前の悲しみを――破壊する。
耳を澄ませば、金属と金属が高速でぶつかりあう音が聞こえる。
シグナムとキョウヤが繰り広げる剣戟の嵐。
おそらくあの二人がこちらに戻ってくることはないだろう。
そう思い、ヴィータは手にしたグラーフアイゼンを強く握りしめる。ヴィータの後ろには、シグナムを除いた仲間達。後衛担当が多いため、自然とヴィータがチームの先頭に立つことになる。
相対するのは、三人の次元犯罪者達。
アンリエットを筆頭に、人形使いのアニタと、強制催眠能力者のリリ。
両者が睨み合い…………ヴィータとアンリエットが同時に動いた。
「アイゼン!」
『jawohl』
前に飛び出すと同時にカートリッジをロードする。鈍色のハンマーヘッドに形成されるのは黄色いスパイク。そしてジェット機の噴射口のような推進剤噴射口。魔力によるブーストで加速するハンマーヘッドに遠心力を、そして己の全力を込めて、回転運動を縦ベクトルに変換した一撃をアンリエットに加える。
対し、アンリエットは愛用している細身の長剣を上段に構え、逃げることも受け流すこともせず、正面からグラーフアイゼンを受け止める。
「……くっ」
「…………!」
すぐにでも折れてしまいそうなアンリエットの剣。その見た目に反し、ヴィータのドリルのような一撃に耐え、そのまま押し合いに持ち込まれる。刀身から火花をまき散らしながらビクともしない。先日はこれよりも巨大で肉厚な戦斧を軽々と破壊したのに、である。一点への破壊力に特化したグラーフアイゼンのラテーケンフォルムに対し、それだけアンリエットの魔力強化が強力ということか。
ヴィータはアイゼンを振り抜き、アンリエットと一旦距離を取る。
『フランメファイル!』
『アイゼスファイル!』
そのタイミングを見計らって、後方からの支援攻撃。ヴィータの背後からアンリエットを狙うのは、八本の炎の矢と八本の氷の矢。アギトとリインの放った、炎熱属性・氷結属性を持った誘導魔力弾。それらはアンリエットに迫り……間に割り込んだ八体の木偶人形に直撃する。破壊される木偶人形達。そのせいで、肝心のアンリエットに攻撃が届かない。
『鋼の軛!』
『八卦光帯!』
ザフィーラの放った白い軛。それをアンリエットの放った八本の光の帯が食いとめ、相殺される。直後、アンリエットが再び前に飛び出す。狙いは、後方で夜天の魔導書を開き、大魔法の詠唱を続けるはやて。
その速さに、リインとアギトは対応できない。
防御専門のザフィーラではその速さに追いつけない。
間に割り込もうとヴィータが動くが、その起動は突如出現した八体の木偶人形に阻まれる。破壊しようと思えば数秒とかからない。だが、その僅かな時間で、アンリエットははやてに肉薄する。
アンリエットの刃が迫り、しかしはやては回避しようとも、詠唱を中断しようともしない。
煌めく凶刃。
鋭い一撃は……しかし、はやてとアンリエットの間に突如出現した一枚の緑色の盾に防がれる。
「『風の護盾』……。はやてちゃんには、指一本触れさせません!」
はやてへの攻撃を防いだのはシャマル。
シャマルの所有する強力な防壁『風の護盾』。ヴィータのラテーケンに耐えるアンリエットでも、その強固な防壁を一撃で打ち砕くことは難しい。
攻撃を阻まれ、逆にアンリエットが窮地に立たされる。
「アギトちゃん!」
「おうよ、リイン!」
祝福の風と烈火の剣精が、同時に詠唱を開始する。
『冷やせ、零度氷塊』
『爆ぜろ、爆裂蒸気』
狙いは、シャマルの風の護盾の前で硬直したアンリエット。
その場から退避しようとする彼女を、シャマルとザフィーラのバインドがその場に縫い付ける。
「これは……!」
シャマルの『戒めの鎖』と、ザフィーラの鋼の軛。
「アンリエット!」
再召喚された木偶人形が、詠唱を続けるリインとアギトに迫る。
「させるか!」
その妨害は、ヴィータの一撃がまとめて破壊する。自身を起点にしグラーフアイゼンのブースターを全開にする。まるで独楽のような円運動をすることで、すべての木偶人形をスパイクヘッドの軌道上に収める。その破壊力に木偶人形では耐えられない。
『ダンフエクスプロージオー!』
リインとアギトの詠唱が同時に聞こえる。
直後、アンリエットの周囲を、大量の水蒸気を伴う爆発が襲う。
リインとアギトの複合魔法、ダンフエクスプロージオー。リインが解ける直前の氷を生成、アギトがそれを一瞬で数百度の水蒸気に変換する。急激な体積変化と温度上昇を利用した、水蒸気爆発を人為的に引き起こす魔法である。爆発に加え、周囲に発生した大量の水蒸気で相手の視界をかく乱することも可能。消費魔力が小さく詠唱時間の短い、そこそこ使い勝手の良い複合魔法。
「やった、ですか?」
「……いや、あのくらいでやられるタマなら、こんなに姉御達が苦戦するハズが」
「その通りだ」
一瞬。
それだけの時間で、アンリエットはリインとアギトに肉薄していた。あのバインドを解き、水蒸気の爆発に耐え、水蒸気の雲の中からこんな短時間で私達の元にやってきたのか。そんなことを、考える時間すら与えてくれない。それだけの迅速さ。
リインとアギトは近接戦闘能力を持たない。元より、二人の全長は三〇センチ程度なのだ。接近戦に持ち込まれたところで、通常の人間サイズの魔導師や騎士には絶対に敵うハズがない。
そんな彼女達が、アンリエットの接近に危機感を抱かない理由がある。
アンリエットの刃を防ぐのは、赤色のベルカ式シールド。
「おおおおお!」
そしてその背後からは紅い鉄鎚の騎士の追撃……鎚撃が迫る。フォルムドライ、ギガントフォルム。コンパクトサイズにした白いハンマーヘッドをアンリエットの頭上から全力で叩きつける。
その鎚撃を受け止めるアンリエット。勢いを殺し切れず身体が沈むが、細い刀身でアイゼンを受け止め、ハンマーの勢いが止まる。だが、手ごたえはある。このまま押し潰そうとヴィータは両腕に渾身の力を込める。
「行って、木偶人形!」
そのヴィータの周囲を、八体の木偶人形が取り囲む。ヴィータは舌打ちをし、アイゼンで木偶人形を叩き落とす。手ごたえがないくらいにあっさりと木偶人形達は撃墜されていく。だが、その人形達の真価はその強さではなく、術者が健在な限り無限に召喚されることだ。今のように妨害に使われると邪魔で仕方無い。
木偶人形をヴィータが叩き潰している間に、アンリエットはアニタとリリの元に戻っている。
そして、こちらも。
「みんな、戻って!」
はやての指示が聞こえる。
その声に従い、ヴィータ達がはやての元に集結する。
それを確認してから――はやては、魔法を発動させる。
『フィンブルヴェド!』
瞬間、再び展開されるミッド式の天蓋魔法陣。そしてそこから放たれる、雨のような砲撃魔法の嵐。白い閃光がアンリエット達がいる空間を穿つ。無数の砲撃の雨ははやて達の下を覆う雲に巨大な穴を空け突き抜ける。地上に降り注ぐそれらはしかし、地上に到達する前に消失するように設定されている。
天空を覆う白い魔法陣から降り注ぐ砲撃の雨は、まるで流星群のように見えた。
そうして、魔法の効果が終了する。
莫大な魔力残滓を撒き散らし、周囲が静まりかえる。
輝く無数の光の筋が瞼の裏に焼き付いて、目が少しチカチカする。
ヴィータはそれまでアンリエット達がいた場所に視線をやり、そこにアンリエット達の姿があることを確認し……彼女達の姿が蜃気楼のようにかき消えたことを確認した。
直後、ヴィータ達の眼前に出現したのは、全長一〇メートルを超える朱色と紺色の双頭龍。
『!?』
仲間達はその突然の出現に驚き、咄嗟の対応が取れない。その間に、眼前の双頭龍が大きく息を吸い込む。直感で分かる。目の前の双頭龍が放とうとしているのは、火炎と凍結の
龍の息吹
。
だが、ヴィータは知っている。自分だけが直に経験したから分かる。
目の前の存在は幻覚。まるで本当に目の前にいるかのような存在感と威圧感。龍の口から僅かに漏れる熱気と冷気。そのすべてがまやかしだ。
「ギガントシュラーク!」
グラーフアイゼンを横に大きく振りかぶる。大きさ自在のハンマーヘッドのサイズを最大に。全長一〇メートル以上の双頭龍よりも更に巨大なグラーフアイゼン。鉄鎚の騎士と鉄の伯爵の誇る最上級の破壊力、
巨人族の一撃
。巨大化したハンマーヘッドを双頭龍の胴体に横薙ぎに叩き込む。手に伝わるのは双頭龍の骨が砕け内臓が潰れ肉が千切れるリアルな感触。幻覚だと分かっているのに、本当のことだと錯覚してしまいそうだ。
尤も、これが幻覚であろうと本物であろうと、ヴィータのすることは変わらない。
腕の力を緩めず、双頭龍の身体を完全に破壊する。コントロールを失ったふたつの頭から火炎の息と氷結の息が吐き出されるが、それらはあさっての方向に向かっている。そんなことも気にせず、ヴィータはすでに力を失った双頭龍を弾き飛ばす。
それから、この幻覚の主に接近する。
強制催眠能力に対する、唯一の弱点のようなもの。
それは、相手に幻覚を見せるためには、ある一定の範囲内にいなければならないということだ。
事実、この現象の主、リリはヴィータが視認できる場所にいた。
「リリ!」
グラーフアイゼンのハンマーヘッドを再びコンパクトサイズに戻し、ヴィータはリリの元に向かう。途端、自身の周辺を数体の鎧騎士が囲む。得物は様々。まるで、初めてリリと出会った時のような状況。
違うのは、これはすでにヴィータが経験したことだ、ということ。
同じ状況に陥って再び同じ不覚を取るなど、一流の騎士には絶対にありえないことだ。
そして何より、今の自分は一人ではない。
私の後ろには、頼れる仲間達がいる。
『
凍てつく足枷
!』
『
炎の賢者
!』
『ニーズホッグ!』
自分の後方から入る援護射撃。そのすべてが、ヴィータに襲いかかろうとした鎧騎士達を氷漬けにし、燃やし尽くし、破壊する。目の前にいた鎧騎士を一撃で粉砕して、ヴィータはリリに肉薄する。
「…………!」
ハンマーを振りかぶるヴィータを眼前にして、リリは表情を変えずにその細い両腕を前に突き出した。直後、ヴィータとリリの間にリリの身体を覆い尽くす大きさの盾が出現する。その盾にグラーフアイゼンが阻まれる。こんなものまで幻覚で見せることができるのか。厄介なのは、この幻覚は実体を伴っていないのに、自分の攻撃を防いでいること。そこにある、と自分が認識しているから、障害物の手ごたえを身体が勝手に感じ取って無意識のうちに身体が動きを止めている。寸止めを完全に無自覚の内にさせられているようなものだ。
自分がそこにあると認識しているから、そこにあると身体が判断する。
ならば。
その心の持ったイメージすら超越するほどのイメージ。
思い浮かべるのは破壊の力。目の前の盾を破壊するだけのイメージ。強く、強く、考える。思い浮かべる。そこにあるのが当然と考えるのではない。これは幻覚だ、と自分に言い聞かせることでは足りない。そこにあるものを破壊する。粉砕する。強制催眠を超越するそれは、言うなれば――絶対認識。
「鉄鎚の騎士に、…………破壊できないものなんて、ない!」
叫ぶ。強い強い想いを籠めて。
アイゼンを振り抜き、眼前の盾を……破壊する。
「!」
表情を僅かに歪め、リリが盾破壊の勢いに押されて大きく弾き飛ばされる。いや、あれはわざと弾き飛ばされたのか。それまでリリがいた場所から、更に数百メートルも遠ざかる。
ヴィータはリリを追跡し、リリの動きが停止したところで、
「!」
悪夢に見舞われた。
それまでヴィータは、夜天の夜空にいた。雲の上にいるから、空に輝く満月と星が良く見える。月明かりが強すぎて輝きの小さい星が見えなくなるほどで、その光にも負けない大きな星明かりが夜空に瞬く。
それが、今のヴィータが見ているのは、雪景色。雲があまりに厚過ぎて、昼だというのに薄暗かった。そこはかつては栄えたであろう遺跡地帯。降り積もった雪の層が厚く、どこか物悲しさを感じた。
ヴィータは、その場所のことを今でもよく覚えている。
そして、その場所で起こったことを。
その雪の積もった遺跡地帯で、アタシ達は謎の反応を感知した。その反応の調査に派遣されたのは、アタシと、当時すでに管理局航空部隊のエースオブエースの地位を確立させていた、現管理局最強の砲撃魔導師。
もう、九年も前の話になる。
考えてみれば当然の話だったんだ。アイツはエースオブエースで、管理局でもすでに並ぶ者のいない砲撃魔導師で、だけどまだたった十三歳の少女だったんだ。そんな未熟な身体で、ただでさえ身体に負担のかかる収束魔法や自己ブースト、エクセリオンを使いまくって、身体が悲鳴を上げないわけがなかったんだ。
運が悪かったのが、その少しづつ確実に身体に溜まっていたものが、その時に爆発したことだ。
予兆はあったハズだ。ただ、気丈に振舞うそいつを見て、だれもその予兆に気付けなかった。……当時、一番傍にいたアタシが気付かないといけなかったのに。
あの時、アイツの不調に気付けば良かったと、何度後悔したことか。
あの後、アイツのことを護れなかった自分を、何度責めたことか。
もしかしたら一生飛べない身体になるかもしれない。そんなことを宣告されて、それでもベッドの上で弱弱しく、大丈夫だよと微笑む笑うあいつを見て、どれだけ心を痛めたことか。
その時の悪夢が、今のアタシの前で繰り広げられている。
当時はアンノウンとされた、鉄の鎧の機械兵。今のそれらの呼称は、ガジェットⅣ型。
そいつが、なのはを撃墜する様子。当時のアタシは、それを最初から最後まで見ていて、助けられなくて。忘れようと思っても忘れられない。なのはの白いジャケットが血に染まり、周囲に積もっていた雪が、真っ赤に染まる光景。
今でもたまに夢に見る。
うなされて目を覚ますことだってある。
それは紛れもない、ヴィータにとっての最大級のトラウマであり、悪夢そのもの。
「…………」
ギリ、と歯を食いしばる。
胸にこみ上げるのは、後悔と無念と悲しみ。もう二度と見たくない光景を心の底から呼び起され、再びこうして見せつけられて、心が壊れそうになる。暗い感情に呑み込まれて、自分を見失いそうになる。
今でも心を苛むそれは、忘れればいいことなのかもしれない。
だけど、忘れてはいけない。ヴィータはそう思う。
だって、それは。
「…………ふざけるな」
グラーフアイゼンを握る手に力が籠る。手の平に爪が食い込みそうになるくらいに、強く。
目を逸らしたくなる光景を、正面から直視する。
心が壊れそうになるその出来事を、絶対に忘れない。
それが、護れなかったものに対する償い。
壊せなかった悲しみに対する贖罪のようなもの。
「アタシは、鉄鎚の騎士」
呟き、己の魔力で鉄球を生成する。その鉄球は、ヴィータの頭よりも大きい。
「アタシが壊せない悲しみなんて……」
ギガントフォルム、コンパクトサイズのアイゼンを振りかぶり、
「この世のどこにも、ありはしねーんだ!」
『Kometfliegen』
鉄球に魔力を付加し、全力で打ち出す。打ち出された鉄球は高速で飛翔し、目の前の悪夢を、なのはを撃墜したガジェットⅣ型を破壊する。それから鉄球は方向を変え、あさっての方向に進んでいく。…………とある場所の災厄を破壊するために。
アタシは昔、なのはのことを護ることができなかった。
悲しみを、打ち砕くことができなかった。
だからあの時、アタシは誓った。
鉄鎚の騎士の名の下に、アタシの目の前に存在する悲しみを、すべて破壊すると。
アタシの目の前にいるのは、悲しみに支配された女の子。
「リリ!」
ヴィータは叫んだ。
「アタシは、リリの悲しみを、破壊する!」
それから、幻の雪景色の中に佇むリリにアイゼンを向ける。
対し、この幻を生み出したリリは、降り積もる幻の雪の中で、ヴィータのことを無表情のままじっと見つめていた。その、徹底的に感情の削ぎ落された表情に、底が見えないくらいに深い瞳に、ヴィータは恐怖のようなものすら感じる。
だが、ヴィータは屈しない。
ひとつの想いを胸に、リリと相対する。
「…………私の悲しみを、壊す?」
小さな声でリリが呟く。
その声からも、感情のようなものを一切感じることができない。
こんなに小さな女の子が、こんなに感情を持たないなんて。
「無理だよ、それは」
そんなの、悲しすぎる。
「だって」
だから、アタシがリリの悲しみを破壊する。
「アナタは、ホントウノカナシミヲ、シラナイノダカラ」
不意に雪景色が消え、周囲が真っ暗になる。
月明かりも星明かりも見えない、それは正真正銘の暗闇。
そして何かが、ヴィータの心の中に入り込んでくる。
「う、あ……」
心に入り込んできたのは、どす黒い感情。私利私欲にまみれ、他を顧みない欲望に支配された心。他人の不幸や悲しみを何とも思わない醜い心。人の苦痛を快楽とし、心の底から喜べる心。それは絶対に見たくない人の心の裏側。誰もが持ち得る醜い感情であり、異常者が持つ真性の汚い心でもある。それらに五感が支配され、その汚さしか感じ取ることができない。
「っく、あ、ああ……」
触覚で、視覚で、聴覚で、嗅覚で、味覚で、誰かのどす黒い心を感じる。全ての感覚が支配され、自分の感情とどす黒い感情の境界線が曖昧になる。周囲の黒い世界のように黒い感情。これが、勝手に他人の心が流れ込んでくるということ。見たくもない人の心の裏側を無理矢理認識させられて、自分とその黒い感情の境目が分からなくなってくる。
これが、リリが見てきた世界。
人間の汚さにまみれた、普通の人なら自分を保てなくなるくらいにどす黒い世界。
リリはこの世界から、逃げることも許されなかった。ただひたすらに、人の心の裏側を自分の心で直接感じさせられる。あまりにも黒く、あまりにも汚く、あまりにも醜い。その世界にどっぷりと浸かって、光のない暗闇の世界に生きてきた。
こんな世界で、たった一人で、生きてきたんだ。
「……………………っ!」
歯を食いしばる。
強く心を持って、自己を確立する。
そして、己の想いのありったけを振り絞って、叫ぶ。
「アイゼン!」
『Zerstorungsform』
リミットブレイク。
それは、自身の身体の限界を突破した、己の放ち得る最大出力。
自分の限界を突破してでも為さねばならないことを為すための、最強の形態。
強い想いを為すための力
。
グラーフアイゼンのフォルムフィーア、ツェアシュテールングスフォルム。ギガントフォルムの巨大なハンマーヘッドに巨大なドリルと推進剤噴射口が加わった姿。その力が司るのは、純粋な破壊。目の前の障害を、完膚なきまでに粉砕するための最大出力。
「あああああああああ!!」
ハンマーヘッドのドリルを高速回転させる。推進剤を限界まで噴射させる。そして、己が全力を込めて、破壊の力を爆裂させる。
「ブチ砕けぇ!」
ありったけの想いと力を込めて、周囲の空間ごとヴィータを支配するイメージを、粉砕する。
ヴィータを包み込んでいた暗闇が、音を立てて砕け散る。ヴィータの視界に飛び込んできた光景は、先ほどまでと変わらない夜天の夜空と、珍しく表情を驚きに歪ませたリリの姿だった。
なんだ、そんな顔もできるんじゃねーか。
心の隅で安心しつつ、ヴィータはリリに告げる。
「リリ! アタシは、鉄鎚の騎士だ。アタシに壊せないものなんて、この世のどこにもありはしない!」
言葉にするのは、昔大好きな主が言ってくれたこと。
ヴィータに壊せないものなんて、この世の何処にもありはしない。
「アタシの手にかかれば、今みたいに、どんな悲しみだって壊してみせる!」
ヴィータが今破壊したのは、リリが生み出した幻覚ではない。
リリを包み込んでいた悲しみの一端を、ヴィータは破壊した。
心に強烈なイメージを誤認させる強制催眠能力。それを打ち砕くのは、結局のところ、催眠に屈しない強力な心なのだ。誤認させられたイメージを上回る確固とした意思。……多分、管理局最強の砲撃魔導師は、この能力に負けないだろう。幻覚くらいは見るだろうが、先日のヴィータのように、見せつけられたトラウマに屈することはない。それだけ彼女の心は強く、そして、強制催眠能力はそんな心に弱いのだ。
大事なのは、他に惑わされない強い心。
……おそらく、リリがヴィータに感じさせたあの黒い感情は、リリが今まで感じてきたものをヴィータにも感じさせたものだろう。それをずっと感じて来て、リリが最終的に感じたモノは、どうしようもない悲しみと、絶望。
それすらも、ヴィータは破壊した。
こんな小さな女の子が、こんなに辛い悲しみに囚われていてはいけない。
そして、こんなときだったからこそ思い出した、大好きな主の言葉。
他人の悲しみに人一倍敏感なヴィータの優しさが、そして大切な人達との思い出が、ヴィータの心を強くした。
「アタシが、お前の悲しみをぶっ壊す! お前と一緒に、その悲しみを背負ってみせる!」
だから
「アタシのことを信じろ、リリ!」
頭の中で思っていることが、勝手に言葉になって口から飛び出ていく。
心の中で感じていることが、ひとりでに形を成していく。
ヴィータが願うことはたったのひとつ。
目の前の女の子のことを、救いたい。
「…………」
相変わらず感情の籠らない瞳で、リリはヴィータのことを見つめている。
そんなリリが、自ら沈黙を破った。
「…………本当に?」
「本当だ!」
「…………こんな世界から、逃げだせるの?」
「そのふざけた世界ごと、アタシが破壊する」
リリは相手の心を読むことができる。だから本当は、こんな風に言葉にしなくても、リリは自力で自分が言いたいことを理解してくれる。
それでも尚、ヴィータは己の想いを言葉に変換していく。
その気持ちを、本当にするために。
「……リリ。お前は、そんな世界に居続けたいのか?」
「……………………嫌だよ、そんなの」
優しく問いかけたヴィータの言葉に、少し遅れてから、リリが答えた。
その声にも、言葉にも、年相応の感情が籠っていた。
そう答えてから、リリは俯いた。
「嫌だよ、もう、嫌だよ……。こんな世界、もう、嫌だよ……!」
放たれるのは、悲しみに満ちた声。
俯いているため表情こそ見ることができないが、リリがどんな表情をしているのか、なんとなく予想がついていた。
「……私だって、笑いたいよ。アンリエットみたいに理想に燃えて、キョウヤみたいに信念を貫いて、アニタみたいにみんなと仲良くして……ヴィータみたいに、大好きな人達と笑って過ごしたいよ。…………私だってもう、あんな世界、見たくないよ…………!」
今にも泣き出しそうに震えた声。
その声を、ヴィータは静かに受け止める。
「…………………………………………助けて、ヴィータ」
ようやく放たれた、リリの本当の想い。
頭を上げ、ヴィータのことを見つめながら、たったそれだけの言葉が放たれる。
その瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「分かった」
静かに、ヴィータは頷く。
それから、正面のリリのことを見据える。
今のヴィータには見える。
それまでヴィータを囲んでいた暗闇の空間。それよりももっと黒くてたちの悪い世界が、リリのことを支配している。初めて感情を顕わにしたリリ。その内側にあったものがリリの感情と一緒に暴走して、リリの外側にまで漏れている。
アイゼンを振り抜き、足もとに魔法陣を展開する。古代ベルカ式の魔法陣、その色は赤。
「リリ。お前を支配している悲しみを――破壊する」
アイゼンを振りかぶる。サイズは最大。カートリッジはフルロード。リミットブレイク、限界突破。
強い想いを為すための力
。ドリルが激しい音を立てて高速回転する。噴射口ごと壊しかねない勢いで推進剤が噴射される。
破壊の対象は、リリを支配する悲しみ。
アタシの力は、全ての悲しみを打ち砕く力。
鉄鎚の騎士の全身全霊を込めて。
『ツェアシュテールングスハンマー!』
振り下ろされる破壊の力。
それが砕くのは、リリを支配する悲しみ。
ありったけの想いを込めた一撃に、どす黒い世界は耐えきれず。
ガラスが砕けるような大きな音を立てて、リリを包んでいた黒い世界が、夜天の夜空に砕け散った。