夢を、見ていた。
夢の中で私は、ああ、これは夢なんだな、と感じることができた。
なぜなら、私が見た夢は、昔の夢。
それは、私――フェイト・T・ハラオウンと、なのはが初めて出会ってからの出来事。同じ目的のために出会い、ぶつかりあった私達。私に純粋で真っ直ぐな気持ちをぶつけてくるなのはに、無関心だった私の心は揺さぶられ、いつしか、なのはのことを大好きになっていた。
私はなのはへの想いを抱え続けて、数年が過ぎた。
今の私となのはの関係は、その時とは少しばかり変化している。
「ん……」
夢の世界からまどろみの世界をいっきに通り越して、私の意識は覚醒する。それと同時に、身体の感覚が戻ってくる。感じるのは、私が眠っていたベッドの暖かさと、それとは別種の暖かさ。
私は目を開けて、顔を私の横に向ける。
「あ……。フェイトちゃん、起きた?」
私の視界に映るのは、私が誰よりも大好きな女の子。
高町なのはが、ベッドに入ったまま、身体ごと私の方を向いて、私のことを見つめていた。
「んー……。もう、少しだけ」
「んもう。フェイトちゃんは、お寝坊さんだねー」
少しだけ拗ねたようななのはの声が、耳に心地よい。
だけど私は、どうしてなのはが私の傍にいるのか、咄嗟に思い出せないでいた。
なのはのことを見つめたまま、私は意識を覚醒させていく。
なのはは、私と同じベッドに横たわったまま、私のことを見つめている。掛け布団に隠れてよく見えないけれど、その下に隠れているなのはの身体が一糸まとわぬ姿であることを、私は知っている。私もなにも着ていない。それがどういうことなのか、今の私には理解できる。
こうしていても、手に取るように思い出すことができる。なのはの身体の柔らかさ。肌と肌で直接触れ合う温もり。お互いを求めて、求めあって。長い時間と、たっぷりの愛情を込めて、私達はひとつになった。それが、昨日の夜の出来事。
ああ……思い出した。
「もう、大丈夫だよ」
「にゃは。じゃあ、改めまして。おはよう、フェイトちゃん」
「おはよう、なのは」
私はなのはと一緒に暮らしている。それは確か、地球の中学校を卒業して、ミッドチルダに住むようになってから。ルームシェアではない。大好きな人とは、なるべく一緒にいたから。保護者から独立するのを機に、私達は同棲するようになった。
ミッドチルダの管理局本部から比較的近い距離。部屋は1LDK。二人で暮らすには丁度いい広さ。一部屋を寝室にして、私はなのはと一緒の部屋で暮らしている。
朝起きれば、私の傍になのはがいる。
仕事が終わって家に帰れば、なのはが出迎えてくれる。
そして夜になれば、二人で愛し合う。
もちろん、そうじゃないときもある。
だけど、なのはと一緒に暮らす毎日は、私にとっては最高の幸せだ。
だから私は、なのはと過ごす日常を噛み締める。
夢みたいな日常を、手放したくないから。
故に私は、その幸せを噛み締めながら、大切な人に、おはようのキスをした。
桃色のパジャマの上から淡いオレンジ色のエプロンを着て、フライパンの具合を見るなのは。左手でフライパンの柄を持って、右手にはフライ返しが握られている。一方私はというと、四人掛けのテーブルの椅子に座ったまま、エプロンを着たなのはのことを後ろからじっと見つめている。なのはが働いているのに私はこうしてボーっとしているのは不公平な気がするけど、一緒に暮らし始めた最初の時、家事は交替制でやるということを二人で決めたのだ。それで、今日の朝ごはんの当番はなのはだから、私はこうしていても問題はない。
と言っても、何もしないというのもアレなので、少しだけお手伝いをしていたりもする。そのお手伝いも終わったから、今こうして台所に立つなのはの素敵な姿を見つめているわけで。
「フェイトちゃん、今日のお仕事は?」
左手でフライパンの柄を握ったまま、なのはが顔だけこちらに向けて訪ねてくる。
「んー、大きな仕事はもう終わったから、今日は早く帰れると思うよ。でも、どうして?」
「うん。あのね、私も今日、お仕事早く終わりそうなんだ。だから、たまには二人でデートがしたいなー、って。……だめ、かな?」
少しだけ頬を赤らめて、上目づかいで尋ねてくるエプロン姿のなのは。
そんな可愛いなのはの仕草に心奪われながら、私は答える。
「ダメもなにも、なのは。私が、なのはのお願いを断れないの、知ってるでしょ?」
「なら、いいんだね?」
「いいもなにも、断る理由がないよ」
「にゃはは。フェイトちゃん、ありがとう」
上目づかいの不安そうな顔から、ぱぁっと、まるで花が咲いたみたいに、なのはが笑顔になる。それだけで、部屋の空気が暖かくなったような、そんな錯覚に襲われる。なのはの素敵な笑顔を見ただけで、私まで笑顔になる。
なのはの笑顔には不思議な力がある。
それはきっと、私となのはの間にだけ通じる笑顔の魔法なんだと、私は思う。
「じゃあ、集合時間は夕方六時。場所は……そうだね、例の噴水の前ね」
「うん。分かった」
私達が住んでいる地区の中央街からは少し外れた場所にある小高い丘は、公園として整備されている。例の噴水とは、その公園の広場にある大きな噴水のことで、私となのはが待ち合わせをするときの目印にしている。
「にゃははー。フェイトちゃんとデートだ~。嬉しいな~」
なのはは実に嬉しそうに笑ってから、再びフライパンに向き合った。よほど嬉しかったのか、なのはからは陽気な鼻歌が漏れている。踊るようなリズムで、小刻みに腰を動かしている。それは踊っているつもりなのだろうか。子供っぽい仕草だとは思うけど、それもなのはの魅力であり、可愛らしい部分なので、私は大好きだけど。
「…………」
しかし、だ。
なのはは寝るときにはパジャマを着るわけだけど、基本的に下のズボンの部分を穿かない。元から大きめのパジャマを着ているので、パジャマの上着の裾がスカートみたいになって、下着が丸見えになることはないし、袖から手をちょこんとだした仕草も犯罪的に可愛いから、問題ではないと私は思う。
問題は今朝、私達は裸で寝ていたということと、今のなのはの服装は、素肌の上からパジャマの上着を羽織っただけだということ。ほら、アレだ。いわゆる素肌Yシャツというものに近い。パジャマの上着のボタンは大体留めてあるから、なのはの素肌が全部見えるわけではないんだけれど、第二ボタンから上は留めてないから、こう、なのはの結構ある胸の谷間が見えたり、上機嫌で小刻みに動くたびに、裾の部分から小ぶりなお尻が見えたり……しているのだ。
そういうのが見えて不愉快なわけではない。むしろ眼福ものだ。昨日の夜みたいな、なのはの生まれたままの姿を見るのとは、また違った趣があって素晴らしいとも思う。だけど、そういうのを見せられたら、私もドギマギすると言いますか、理性が揺さぶられてつい襲いたくなっちゃうとか、あるわけで。
恐ろしいのは、なのはがこういう無防備な姿を計算で見せているのではなく、完全に素でしているということだ。私の理性を崩壊させる急所を熟知してるんじゃないかって思うくらいに、なのはから見たら何気ない仕草が、私の理性を揺さぶることは多々ある。同棲初期の頃はそういうなのはの仕草に慣れていなくて、何度も危険な目にあったけど、最近ではそこそこ慣れてきたので、とりあえず問答無用で襲いかかってしまうことはなくなった。
それに、流石に仕事前の朝からそういうことをするわけにもいかないので、私は自重する。
「フェイトちゃん。そろそろ卵が焼けるから、準備してくれない?」
「あ、分かったよ、なのは」
なのはに言われて、私は朝食の準備を開始する。
なのはが朝食当番の時に私がすることは、使うお皿を食卓に並べることと、朝食と一緒にとる飲み物の準備。なのはは毎朝ミルクを飲むし、私はコーヒーを飲む。お皿はもう並べてあるから、後は冷蔵庫を開けて、ミルクをなのはのマグカップに注いだりコーヒーを淹れたりするくらいだ。
今日もその例に漏れず、私はなのはのマグカップにミルクを注いだ後で、自分のコーヒーを淹れて食卓に着く。その頃には、すでに並べられたお皿の上になのはが作ったベーコンエッグと簡単なサラダ、そして別のお皿には、こんがりときつね色の焼き目がついた食パンが盛られている。
いつも通りの、朝の光景。
パンに塗るバターやジャム、それにバターナイフやお箸など、必要なものが全て揃っていることを確認してから、なのはが私と向かい合わせの位置に座る。
「それでは、フェイトちゃん」
なのはに言われ、私は両手を合わせる。なのははブカブカのパジャマを着ているので、私と同じように両手を合わせるために袖から手をちょこんと出したその姿がすごく可愛らしい。
「いただきます」
「いただきます」
ちゃんと二人でいただきますの挨拶をしてから、私達は食事をする。それは、二人暮らしを始める前に決めた、私達の決まり事のひとつ。ご飯を二人で食べる時には、二人一緒にいただきます。
それから、私は自分で淹れたホットコーヒーを飲む。最初の一口はブラックで。コーヒーの芳ばしい香りと苦みで、まだどこかぼんやりとした意識を覚醒させる。それからは、その時の気分に合わせて、ミルクを入れたり砂糖を入れたりする。今日の気分は、ミルクを少しと砂糖を多めに、かな。朝以外なら、入れるミルクや砂糖の量は決まっているんだけど、朝だけはそういう風に変えるようにしている。これは二人暮らしが始まる前からの、私の朝の決まり事……というか、習慣みたいなもの。
なのはと二人暮らしを始めて、なのはに合わせて変化させた習慣と、変化しない習慣がある。
もちろんそれはなのはも同じだろうし、そうやってなのはに合わせて生活習慣を変えることは苦にならなかった。なのはと一緒に素敵な毎日を過ごせるんだ。そのためなら、そんな変化は些細なこと。
むしろ、なのはに合わせて生活習慣を変えることは、私にとっては喜びだった。
なのはと一緒に暮らしているんだ。そのことが、自覚できるようで。
「フェイトちゃんも、よく朝からそんな苦いもの飲めるよねー」
コーヒーを飲む私のことを見つめながら、なのはが呟く。
なのははコーヒーが苦手だ。仕事の時にはコーヒーを飲むことは多いんだけど、なのははミルクと砂糖をたっぷり入れないとコーヒーを飲むことができない。だから、結構苦労しているらしい。
年上の教え子から舐められるわけにはいかないから、食堂等では大人ぶってブラックのコーヒーを飲むというのは、なのはの弁。私はそういう苦労はしないんだけど、教導隊というのは、中々に大変なようだ。
「……飲んでみる?」
私はちょっとしたイジワルのつもりで、なのはにコーヒーの入ったマグカップを差し出してみる。なのはは少しだけ躊躇うような素振りを見せた後、両手で私のマグカップを受け取って、舌先で舐めるように、恐る恐るコーヒーを口に含んだ。
「……うぇ。やっぱり、苦い……」
マグカップから口を離し、舌先だけ出してしかめっ面をするなのは。
やっぱり、なのはにブラックコーヒーはまだ早いらしい。
「ほら、なのは」
私はなのはからマグカップを受け取り、変わりにミルクの入ったなのはのマグカップを手渡した。
「そんなに、無理しなくてもいいんじゃないかな?」
「むむ。フェイトちゃん、分かってない。教導隊のお仕事って、私よりも年上の人を教えることの方が多いんだよ? だから、そういう小さなことから舐められないようにしないと、小娘だ、って言われるんだから」
確かに、なのはや私が住んでいた地球に比べて、この世界ではかなり若い年齢でも働くことができる。それでも、なのはの歳で教導隊、というのはあまりないことで、キャリアを積んだ年配の人が多い教導隊では、どうしてもなのはは生徒となる年上の魔導師達から侮られがちだ。なのはのことをもっと良く知ればそんなこともないと思うんだけど……一つ所に留まることが圧倒的に少ない教導隊、やはり、第一印象で決まってしまうことが多いらしい。
いくらエースオブエースと言われても、私達はやっぱり、まだまだ小娘なんだ。
私にも似たような経験が、ないわけじゃないしね。
小娘だ、って侮られると、いい気分はしない。
「……大丈夫だよ、なのは」
少なくても、私は知っている。
なのはは、次元世界でも最高の魔導師だということを。
「なのはなら、例えコーヒーが飲めなくても、最高の魔導師だってこと、みんな分かってくれるよ」
「……フェイトちゃん、それってフォローしてるつもりなの?」
「そうだよ」
……うん、この言葉は、あまりなのはのお気に召さなかったらしい。
「……まぁ、フェイトちゃんがそう言うなら、私は信じるよ」
そう言い、なのははニパッと笑って、
「……私は、フェイトちゃんのことが好きだから。フェイトちゃんの言うことなら、どんなことでも、私は信じられる」
少しだけ頬を赤らめ、恥ずかしそうにモジモジした。
ああ――、まったく。
本当になのはには、敵わない。
だって、なのはのそんな一言で、仕草で、私の心が、こんなにも弾むんだから。
「……どうかしたの、フェイトちゃん?」
「ううん、なんでもないよ」
なのはにそう答えてから、私はコーヒーを口に含んだ。口の中に広がるコーヒーの香りと苦みと、そして砂糖の甘さ。
……失敗したな。
今朝は、もう少し砂糖を減らしておくべきだった。
今日は仕事が終わったらデートをする約束なのに。
砂糖菓子みたいななのはには、やっぱり苦いコーヒーが良く合う。
※
「……しまった」
油断していた。
まさかこんなことになるなんて、朝の私は思いもしなかった。
私は腕時計の時刻を確認する。腕時計の短針が示すのは、午後九時。そして、なのはとのデートの待ち合わせ時刻は、午後六時。
執務官には、急に仕事がくることもあることを、朝の私はすっかり失念していた。
まさかこんな時に限って、違法犯罪者の立てこもり事件が起こるなんて。
一応、なのはには待ち合わせに遅れるかもしれない、ということは連絡してある。だけど、私もここまで長引くとは思っていなかったから、少しどこかで時間を潰してて、というニュアンスでメールを送ってしまった。なのはのことだ。きっと、まだ待ち合わせ場所で待っているに決まっている。
だから私は、本局にある自分専用の執務官室から急いで待ち合わせの場所に向かう。こういう時、飛行魔法が使えないのがもどかしい。飛行魔法が使えれば、すぐにでもなのはの元へ飛んで行けるのに。
エレベーターのスイッチを押し、エレベーターがやってくるのを待つ。エレベーターがやってくるまでの一分程度の時間がすごくもどかしい。エレベーターの扉が開くと、私はそれに駆け込んで、すぐに一階のスイッチを押した。同じエレベーターに乗っていた局員の人に見られたけど、そんなことはどうでもいい。
やがて、一階に到着し、扉が開くと同時に、私は走り出す。
管理局の制服は走りにくい。そんなことお構いなしに、私は走る。
走りながら、私は携帯端末を取り出し、そこでようやく私は、なのはからメールが届いていることに気付いた。着信表示を見て、私の背筋をいっきに冷たいものが走り抜ける。
もしかして、怒らせて帰っちゃったのか。
約束をすっぽかして、悲しませちゃったのか。
どちらにしても、最悪だ。
なのはの怒りは私の怒りで、なのはの悲しみは私の悲しみ。
なのはの悲しんだ顔なんて見たくない。一緒になるって決めた時、私はなのはのことを悲しませないって誓ったんだ。だから、私がなのはを悲しませるなんてことは、絶対に許されない。なのはが許してくれても私が、私のことを赦せない。
恐る恐る私はメール画面を開き、なのはからのメッセージを確認する。
なのはからの、怒りの叱責を覚悟して。
「…………え?」
しかし、メールの内容を確認して、私は気の抜けた声を上げてしまった。
メールの本文は、たったの一文だけ。
ただし、添付ファイルがひとつ。
《仕事が終わったら、添付した地図の場所に来て》
それだけ読んでも、なのはがどういう気持ちなのか、私には判断がつかない。
だから私は、待ち合わせの場所から添付された地図の場所へ、目的地を変更する。
……だけど、なのはが指定した、この場所って……。
なのはが集合場所として指定したのは、待ち合わせをしていた例の噴水がある公園の敷地内に位置する展望台。元々小高い丘になっている場所だから、例の噴水がある広場から繋がる階段を登ったところにある展望台に行けば、ミッドチルダの街を一望できる。
今のような暗い時間帯に展望台に行くのは初めてだけど、ここはきちんと整備された公園であり、街灯もちゃんと備え付けられているので、道に迷ったり、暗がりで躓いたりせずに、展望台に到着することができた。
広場から展望台に続く階段を駆け上がった私の視界に一番初めに映ったのは、展望台でこちらに背を向け、手すりに体重をかけ、ミッドチルダの街を眺めているなのはの姿だった。私の位置からではミッドの街はあまり見えないけど、ミッドの街の明かりが逆光になって、手すりにすがってミッドの街を眺めるなのはの姿をはっきりと映し出していた。
「なのは!」
なのはの姿を確認し、いろいろな気持ちを抑えきれず、私は思わず叫んでいた。
「……フェイトちゃん」
「ごめん、なのは! あのね、仕事が思ったより長引いて、それで、それで……」
「にゃはは。フェイトちゃん、そんなに慌てなくてもいいよ。私、怒ってないから」
私の声に反応して、なのははこちらの方を向いた。その表情は怒っているというより、むしろ、どこか寂しそうな、悲しそうな、そんな表情だった。
「……っ」
なのはの悲しい顔を見て、私の心は絞めつけられる。
なにが、執務官だ。
大切な人を悲しませるために、私は執務官になったんじゃない。
「なのは、私――」
「んもう、フェイトちゃん。だから、いいんだって」
言葉を紡ごうとする私を制して、なのはは苦笑した。
「……フェイトちゃんは、困っている人達を助けるために、執務官になったんでしょ?」
「え、……うん。そう、だよ」
何の脈絡のない言葉に、私は戸惑う。
それと同時に、突然投げかけられたなのはの言葉に、不意に、執務官を目指した子供の頃を思い出す。
すごく悲しい想いをした。すごく悲しい想いをした人を知っている。
そういう人達を助けたくて、私は執務官になった。
だけど。
「私は、駄目な執務官だよ」
「……どうして?」
「だって私は、なのはのことを悲しませた。大切な人一人護れないなんて、執務官失格だよ」
まったく、その通りだと思う。
私は確かに悲しむ人達を助けたくて、護りたくて、執務官になった。
それと同時に、私は私の手で、大切な人達を護りたかった。私も、大切な人達に救われ、護られて、今の私になれたから。今度は私がみんなのことを護りたい。そう思った私が執務官を目指すのは、自然なことだった。
いろんなことがあったけど、私は執務官になったことを後悔したことはない。
だけど今は、執務官であることを恥じている。
何が、執務官だ。
目の前の大好きな人を護れないで、なにが執務官だ。
「……もう。フェイトちゃんは真面目さんなんだから。そんなに気にしなくてもいいのに」
まったく、仕方ないなぁ。なのはは、そんな表情で私のことを見ていた。
「だけど、私は――」
「私、思うんだ。フェイトちゃんはね、みんなのものなんだよ?」
私の言葉を遮って、なのはが話す。
「みんなの、もの?」
「うん。フェイトちゃんは、困っているみんなのために戦っている。この悲しみの多い世界で、悲しいことを少しでも減らすために、毎日頑張っている。だから、みんなのために頑張っているフェイトちゃんはみんなのもので、私だけのものじゃないんだよ」
とても穏やかな、なのはの声。その声が、言葉が、私の心に強く響く。
「ほら、フェイトちゃん。見て?」
言い、なのはは、それまでなのはが見ていた方角を示す。
私はなのはに促されるまま、なのはの隣に並んで、なのはが掴んでいた手すりの向こう側に広がる世界を視界に収める。
「……わ、ぁ……」
私の視界に映るのは、ミッドチルダの夜景。真っ暗闇の世界の中に、建物の明かりが煌めいて、まるで満天の星空みたいに見える……ううん、違う。星空の儚い煌めきよりも、もっと強い輝き。町中を照らす、力強い光の集合。それはまるで、毎日を力強く生きる人々の命を象徴しているみたいで、とても、綺麗だった。
「きれい……」
「フェイトちゃんが中々来ないからさ、待ち合わせをすっぽかして、公園を散歩していたんだ。そしたらね、ここを見つけたんだよ」
この公園には何度か訪れたことがあったけど、この時間の展望台の存在は知らなかった。
こんなに綺麗なミッドチルダの夜景が、こんな所から見ることができるなんて。
でもそれは、なのはのことを待たせていたことに繋がるわけで。
「これが、フェイトちゃんの頑張りの証なんだよ」
「え?」
「この街の明かりは、ミッドチルダに住む人が毎日を生きている証。みんなが元気に生きているから、こうしてこの街は夜でもこんなに明るい。平和だから、安心して瞬いていられる。その街の平和を守るのが、フェイトちゃんのお仕事。だから、フェイトちゃんは、みんなのものなんだよ。だから、フェイトちゃん自分が執務官だってことに、もっと胸を張ってもいいんじゃないかな?」
手すりに掴まり、私のことを見つめたまま、なのはがニッコリと笑った。
街の輝きを背にしたなのはの笑顔。
その笑顔に、煌めきに、私は心を奪われる。
「この街の光は、フェイトちゃんが護った光。私はフェイトちゃんが来るまで、ずっとその光を眺めていた。そしたらね、結構あっという間に時間が過ぎちゃったんだ。自分でも驚くくらいにね」
多分、この街の光にフェイトちゃんを感じたからかな、と、なのはは続けた。
「……でもね、フェイトちゃん。それでも流石に、三時間待ちは、少し辛かったよ」
そこで初めて、なのはは怒ったように頬を膨らませる。こういう風に怒るなのはは迫力がなくて逆に可愛く見えるんだけど、なのはを怒らせたのは私だし、悪いのも私なんだから、素直に反省する。
「うん。……ごめん、なのは。どんなに謝っても、取り返せることじゃないと思ってる。だから私は、なのはのお願い事を、何でもひとつだけ、叶えるよ」
「……本当に?」
「本当に」
「うん、分かった。じゃあ、許してあげるよ」
なのははそう言うと、それまで握っていた手すりから手を話して、おもむろに、私のことを抱きしめた。
「……なの、は?」
私のことをぎゅうと抱きしめるなのはの腕に、力が籠る。
「……フェイトちゃんは、みんなのものです。フェイトちゃんの助けを求めている人はたくさんいます。だから、私はフェイトちゃんのことを独占できないし、しちゃいけないと思います」
「そんなことは……」
私の胸に顔を埋めたまま、なのはが語る。
「だけどこうやって、私がフェイトちゃんを捕まえている時は。フェイトちゃんが私の腕の中にいる間は、フェイトちゃんは他の誰のものでもない。私だけのフェイトちゃんです。他の誰にも渡しません。みんながフェイトちゃんのことを待ってるのは分かります。だけど、こうしている時だけは、フェイトちゃんは私、高町なのはだけのものです」
「なのは……」
「だからフェイトちゃん。私がフェイトちゃんの腕の中にいる時は、なのはのことを、フェイトちゃんだけのものにしてください。なのはだけのことを見て、なのはのことだけを考えて。なのはのことを、フェイトちゃんしか考えられないように、してください」
なのはのお願い事。
そのお願いに、私の心臓が高鳴る。
私がなのはに捕まっているときだけは、私はなのはだけのもの。
……そんなこと、わざわざお願いしなくても、いいんだけどな。
「……大丈夫だよ、なのは。私は初めから、なのはのものなんだから」
きっとそれは、私がなのはに救われたあの時から。
私はずっと、なのはのものになりたかった。なのはだけのものになることを望んでいた。
だから。
年がら年中なのはに心を囚われている私は、もうずっと前から、なのはだけのものなんだ。
「……本当に?」
「うん。本当だよ。私は、なのはだけのもの。他の誰のことも考えないし、どうでもいい。……私は、なのはのことが好きだから。なのはのためなら、どんなことでもしてみせる」
「……それって、執務官が言ってもいいこと、なのかな?」
「マズイとは、思うんだけどね」
まったく、執務官失格だ。
確かに私は、困っている人達のことを助けたい。悲しんでいる人達のことを救いたい。
それと同時に、なのはが私の世界のすべてで、なのは以外はどうでもいいと思っている自分がいる。
だから、もし、世界中の人々となのはのことを天秤に掛けることが起こったら、私は選べないと思う。
だって、私の世界が存在しているのは、なのはが存在しているから。
なのはがいない世界に、私が存在する意味なんて、存在しない。
「……まったく。困った執務官さんだね」
「だって、こうしてなのはに捕まってるときは、私はなのは以外のことは考えちゃいけないし、考えられないんだから」
「にゃはは。そうだったね」
私のことを抱きしめたまま、なのはが笑う。
なのはの腕の中にいる時には、私はなのはだけのもの。
「……じゃあ、こうしたら、なのはは私だけのものになるのかな?」
なのはに抱きしめられたまま、私はなのはのことを抱きしめ返した。私の腕の中に収まるなのはの身体は華奢で、とても暖かい。これが私の一番大切な人なんだって思うと、もっと強く抱きしめたいのに、あまり強く抱きしめたら壊れちゃいそうで、力加減が中々に難しく感じてしまう。
「うん。そうだね。私がフェイトちゃんの腕の中にいる間は、私はフェイトちゃんだけのもので、フェイトちゃんのことしか考えられません。……ううん。私はいつでもフェイトちゃんだけのもので、フェイトちゃんのことしか、考えられないんだよ」
私の腕の中で、なのはが上目づかいで、私のことを見つめている。
そんななのはのことが、たまらなく愛おしくて。
「……なのは」
私は自分のことが抑えられなくなって、半ば強引に、なのはの唇を塞いでいた。
「ん……」
唇を塞がれたなのはは抵抗もせず、私に為されるがままになっている。私はそれをいいことに、なのはの唇を貪り続ける。半開きになったなのはの口の中に舌を差し込んで、なのはの口の中を蹂躙する。コクン、と、なのはの喉が何かを嚥下する音が聞こえた。そんなことお構いなしに、どこまでもひたすらに、私はなのはのことを求める。唇から伝わる感触も、なのはの体温も、抱きしめたなのはの身体も、心も、全て私だけのもの。独占欲丸出しで、私は、なのはのすべてを求め続けた。
やがて――私は、なのはの唇を解放する。二人の唇が離れても、一筋の銀色の糸が繋がれていた。それはまるで、切れない私達の想いを象徴しているようで、その糸ですらも、愛おしかった。
「フェイトちゃん、強引だよ……」
「嫌だった、かな?」
「……ううん。もっと、してほしい。私をフェイトちゃんのものに……他に何も考えられなくなるくらい、フェイトちゃんのことを感じさせて欲しいな」
「なの――」
言葉を繋ごうと開いた私の唇は、しかし、今度はなのはによって強引に塞がれる。開かれたままの私の唇から、私がしたのと同じように、なのはの舌が差し込まれる。私はそれを受け入れ、むしろより積極的に、なのはのことを求めた。私がなのはのことを私のものにしたのと同じように、なのはも私のことをなのはだけのものにしようとしている。
私は、なのはだけのもので。
なのはは、私だけのもの。
私達は、お互いのことを求めている。
そうやって求め合えることが、たまらなく嬉しかった。
私の世界は、なのはを中心に回っている。
だって私はなのはのもので、なのはのことを、どうしようもなく愛おしく思ってるんだから。
なのはのことだけを考える毎日。
私にとっては、それは最上級の幸せ。
私は執務官として、ミッドのことを守り続ける。
だから、私をずっとなのはだけのものにしてて欲しいな。
それが私の、たったひとつの願いです。